帝国南極横断探検隊(エンデュアランス遠征)、1914年–1917年
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「トム・クリーン」の記事における「帝国南極横断探検隊(エンデュアランス遠征)、1914年–1917年」の解説
詳細は「帝国南極横断探検隊」および「ジェイムズ・ケアード号の航海」を参照 アーネスト・シャクルトンはディスカバリー遠征のときからクリーンを良く知っており、スコットの最後の遠征でもクリーンの功績を知っていた。スコットと同様にクリーンを深く信用していた。シャクルトンの言葉ではクリーンが「切り札」の価値があった。クリーンはシャクルトンの帝国南極横断探検隊に二等航海士として1914年5月25日に参加した。様々な任務があった。カナダの犬調教の専門家が雇用されたものの現れなかったときには、犬を御するチームの1つを任され、この遠征初期に犬のサリーが生んだ子犬の世話をし、養育することに関わった。 1915年1月19日、遠征隊の船エンデュアランスがウェッデル海の叢氷に捉われてしまった。それを解放しようとしていた初期の段階で、船が氷の間で突然動き出し、危うく潰されてしまうところだった。船は氷に挟まれたまま数か月間漂流し、最終的に11月21日に沈んだ。シャクルトンは、食料、装備、および3隻の救命ボートを氷から引き出して、200法定マイル (320 km) 離れたスノーヒルあるいはロバートソン島に引き摺って行くと隊員に伝えた。氷が不安定であり、氷丘脈があり、氷が割れて隊員を分けてしまう危険性があったので、間もなくその計画を捨てた。隊員はキャンプを張って待つことにした。彼らは時計回りに漂う叢氷が400法定マイル (640 km) 離れたポーレット島に運んで行ってくれることを期待していた。そこには緊急物資を備えた小屋があることが分かっていた。しかし、叢氷は固く締まったままポーレット島を過ぎてしまい、4月9日まで割れなかった。隊員は3隻の装備も悪い救命ボートで氷の中を漕いでエレファント島に向かったが、これだけで5日間も要した。エンデュアランスの航海士であるクリーンとヒューバート・ハドソンはその救命ボートを誘導し、ハドソンが衰弱した後は事実上クリーンが采配した。 エレファント島に到着した時に、シャクルトンが安全な宿営地を見出すためにクリーンは「最も適した4人」の1人だった。シャクルトンは、来る可能性のほとんどない救援船を待つよりも、救命ボートの1隻を強化してサウスジョージアまで渡り、救援を手配することにした。最高水位線より上にあるペンギンの繁殖地を宿営地とし、船大工のハリー・マクニッシュが率いる集団が救命ボートを改修してジェイムズ・ケアード号を作り、シャクルトンが率いることになる旅に備えた。エレファント島に残ることになる隊員を率いるのがフランク・ワイルドであり、頼りになるクリーンが島に残ることを望んだ。シャクルトンは当初それに同意していたが、クリーンがボートに乗る6人の中に入れてくれと頼んだ後は考えを変えた。サウスジョージアまで800海里 (1,500 km) のボートによる旅は、極圏歴史家のキャロライン・アレクサンダーに拠れば、記録に残る中でも最も特異な海員魂と航海術の成果であり、暴風と暴雪の中を17日で渡った。航海士のフランク・ワースリーが「山のような西からの大波」と表現したような荒海だった。ボートは1916年4月24日に出発し、最少の装備しかなかったものの、ワースリーの航海術のお蔭もあって、5月10日にはサウスジョージアに到着した。シャクルトンはこの旅に関する後の報告書で、舵を取りながらクリーンが調子はずれに歌っていたことを回想し、「彼は舵を取りながら常に歌っていた。誰も何の歌かは分からなかったが、楽しいものに聞こえた」と記していた。 この隊はサウスジョージアの人が住まない南岸に上陸した。北岸にある捕鯨基地を直接目指していくのは危険性が高いと判断した。もし島の北に回り込めなければ、大西洋に押し出されて島から遠ざかってしまうと考えられた。当初の計画ではジェイムズ・ケアードを北岸に回すつもりもあったが、最初の上陸のときに舵が壊れてしまい、隊員の幾人かはシャクルトンが見るところそれ以上の旅に耐えられなかった。それ故に、最強の3人、すなわちシャクルトン、クリーン、ワースリーが、島の氷に覆われた地形を越えて最も近い人のいる捕鯨基地まで30法定マイル (48 km) を歩いて行く必要があった。この山越えは記録に残る中でも初めてのものであり、テントも寝袋も地図も無く、数少ない山岳装備といえば、大工の手斧、少しばかりの登山ロープであり、ジェイムズ・ケアードから取り出したねじをブーツに打ち込んでアイゼンの代わりにした。3人は36時間後にストロームネスの捕鯨基地に到着した。疲れ切り、汚く、髪は長くモジャモジャで、顔は数か月間脂肪ストーブで料理したために真っ黒となり、ワースリーに拠れば「世界で最も汚い男たち」だった。彼らは直ぐに船を用意させて島の南岸にいる3人を拾ったが、エレファント島に残っていた22人を救い出せるまで、船による4回の試みに3か月を要することになった。
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