帝国南極横断探検隊、1914年–1917年とは? わかりやすく解説

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帝国南極横断探検隊(エンデュアランス遠征)、1914年–1917年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 09:14 UTC 版)

トム・クリーン」の記事における「帝国南極横断探検隊エンデュアランス遠征)、1914年1917年」の解説

詳細は「帝国南極横断探検隊」および「ジェイムズ・ケアード号の航海」を参照 アーネスト・シャクルトンディスカバリー遠征のときからクリーン良く知っており、スコット最後の遠征でもクリーン功績知っていた。スコット同様にクリーン深く信用していた。シャクルトン言葉ではクリーンが「切り札」の価値があった。クリーンシャクルトン帝国南極横断探検隊二等航海士として1914年5月25日参加した様々な任務があった。カナダ調教専門家雇用されたものの現れなかったときには御するチーム1つ任され、この遠征初期サリー生んだ子犬世話をし、養育することに関わった。 1915年1月19日遠征隊の船エンデュアランスウェッデル海の叢氷に捉われてしまった。それを解放しようとしていた初期段階で、船が氷の間で突然動き出し危うく潰されてしまうところだった。船は氷に挟まれたまま数か月漂流し最終的に11月21日沈んだシャクルトンは、食料装備、および3隻の救命ボートを氷から引き出して200法定マイル (320 km) 離れたスノーヒルあるいはロバートソン島に引き摺って行くと隊員伝えた。氷が不安定であり、氷丘脈があり、氷が割れて隊員分けてしまう危険性があったので、間もなくその計画捨てた隊員キャンプ張って待つことにした。彼らは時計回りに漂う叢氷が400法定マイル (640 km) 離れたポーレット島運んで行ってくれることを期待していた。そこには緊急物資備えた小屋があることが分かっていた。しかし、叢氷は固く締まったままポーレット島過ぎてしまい、4月9日まで割れなかった。隊員は3隻の装備も悪い救命ボートで氷の中を漕いでエレファント島向かったが、これだけ5日間も要したエンデュアランス航海士であるクリーンとヒューバート・ハドソンはその救命ボート誘導しハドソン衰弱した後は事実上クリーン采配した。 エレファント島到着した時にシャクルトン安全な宿営地見出すためにクリーンは「最も適した4人」の1人だった。シャクルトンは、来る可能性ほとんどない救援船を待つよりも、救命ボートの1隻を強化してサウスジョージアまで渡り救援手配することにした。最高水位線より上にあるペンギン繁殖地宿営地とし、船大工ハリー・マクニッシュ率い集団救命ボート改修してジェイムズ・ケアード号を作りシャクルトン率いることになる旅に備えたエレファント島に残ることになる隊員率いるのがフランク・ワイルドであり、頼りになるクリーンが島に残ることを望んだシャクルトン当初それに同意していたが、クリーンボート乗る6人の中に入れてくれと頼んだ後は考え変えたサウスジョージアまで800海里 (1,500 km) のボートによる旅は、極圏歴史家のキャロライン・アレクサンダーに拠れば記録に残る中でも最も特異な海員魂と航海術成果であり、暴風と暴雪の中を17日渡った航海士フランク・ワースリーが「山のような西から大波」と表現したような荒海だった。ボート1916年4月24日出発し最少装備しかなかったものの、ワースリーの航海術お蔭もあって、5月10日にはサウスジョージア到着したシャクルトンはこの旅に関する後の報告書で、舵を取りながらクリーン調子はずれ歌っていたことを回想し、「彼は舵を取りながら常に歌っていた。誰も何の歌かは分からなかったが、楽しいものに聞こえた」と記していた。 この隊はサウスジョージアの人が住まない南岸上陸した北岸にある捕鯨基地直接目指していくのは危険性が高いと判断した。もし島の北に回り込めなければ大西洋押し出されて島から遠ざかってしまうと考えられた。当初の計画ではジェイムズ・ケアードを北岸に回すつもりもあったが、最初の上陸のときに舵が壊れてしまい、隊員幾人かはシャクルトンが見るところそれ以上の旅に耐えられなかった。それ故に、最強の3人、すなわちシャクルトンクリーン、ワースリーが、島の氷に覆われ地形越えて最も近い人のいる捕鯨基地まで30法定マイル (48 km) を歩いて行く必要があった。この山越え記録に残る中でも初めてのものであり、テント寝袋地図無く数少ない山岳装備といえば大工の手斧、少しばかり登山ロープであり、ジェイムズ・ケアードから取り出したねじをブーツ打ち込んでアイゼン代わりにした。3人は36時間後にストロームネスの捕鯨基地到着した疲れ切り、汚く、髪は長くモジャモジャで、顔は数か月脂肪ストーブ料理したために真っ黒となり、ワースリーに拠れば世界で最も汚い男たち」だった。彼らは直ぐに船を用意させて島の南岸にいる3人を拾ったが、エレファント島残っていた22人を救い出せるまで、船による4回の試みに3か月要することになった

※この「帝国南極横断探検隊(エンデュアランス遠征)、1914年–1917年」の解説は、「トム・クリーン」の解説の一部です。
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