帝国博物館から帝室博物館へ
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「東京国立博物館」の記事における「帝国博物館から帝室博物館へ」の解説
1889年(明治22年)、「帝国博物館」と改称、九鬼隆一が総長となった。この時、京都と奈良にも帝国博物館を置くこととなり、機関としての帝国京都博物館および帝国奈良博物館の設置はこの年である(実際の開館は京都が1897年、奈良が1895年)。当時の帝国博物館美術部長は明治時代の美術界の理論的指導者であった岡倉覚三(天心)であり、アメリカから来た哲学者・美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事を務めていた。従来、博物館が担当してきた博覧会関係の業務は農商務省に移管され、この頃から歴史・美術工芸系の博物館としての性格が強まる。なお、動物園が博物館から分離したのは1924年(大正13年)である。この年、動物園を含む上野公園が宮内省から東京市に下賜された。同じ1924年、博物館の天産部も廃止され、同部に属していた動植物の標本などの列品は、同年から翌年にかけて、文部省管轄の東京博物館(国立科学博物館の前身)へ移された。 1900年(明治33年)、当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称。「帝室博物館」の名称は1947年(昭和22年)まで使用された。この1900年には当時の皇太子(後の大正天皇)の成婚を祝福するため、上野の帝国博物館内に新たな美術館を建造することとなった。宮廷建築家片山東熊の設計になる新美術館は、翌1901年着工。基礎補強に時間を要したこと、たびたび設計変更があったこと、日露戦争の影響などにより工事は長引き、7年後の1908年に竣工、翌1909年開館した。石造および煉瓦造2階建て、ネオ・バロック様式のこの新美術館は表慶館と名付けられ、21世紀に至るまで博物館の展示の一翼を担っている。 1923年(大正12年)の関東大地震では、コンドル設計の本館のほか、当時存在した2号館、3号館が大破して使用不能となり、本館復興までの十数年間、陳列は表慶館のみで行われた。復興本館の建設が決まったのは1928年(昭和3年)のことで、昭和天皇の大礼を期に大礼記念帝室博物館復興翼賛会(会長徳川家達)が設立された。建設は設計競技方式で行うこととされ、「日本趣味を基調とした東洋式」の建物とするという条件付きであった。1931年4月に設計案の公募が締切られ、273点の応募作のなかから渡辺仁の案が採用された。渡辺案をもとに宮内省臨時帝室博物館営繕課で実施設計を行い、1932年12月に着工、1937年11月に竣工、1938年11月に開館した。これが現存する鉄骨鉄筋コンクリート造2階建ての東京国立博物館本館(重要文化財)である。当時としては、耐火、防盗への対策を最高レベルで講じたもので、閉館時には窓の鎧戸を下ろし、電気を切断。監視人が別館から張番を行う「金庫式の堅城」と呼ばれるものであった。 復興本館開館からまもない1940年には、「皇紀2600年」を記念して「正倉院御物特別展観」が開催された。これは正倉院宝物(当時は「正倉院御物」)が一般に公開された初の機会であり、11月6日から11月24日の間に41万4300余人が入場。博物館の年間入場者数約37万人を19日間で上回ることとなった。 「東京帝室博物館」現在の東京国立博物館の前身。明治5年(1872)、文部省博物館と称して上野公園に創設された。33年(1900)、東京帝室博物館と改称し、昭和22年(1947)までこの名称は使用された。陀羅尼を収める小塔と勾玉の絵あり。「第195號 有效期限 自明治39年9月 至明治39年12月博物館觀覽券壹人壹回限り此券は入塲の節門衛に交付せられたし」と記された観覧券(中央上に「東亰帝室博物館印」あり)が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「東京帝室博物館」より抜粋
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