正倉院宝物
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756年(天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されている。 正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。 北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)・双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。 『献物帳』記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また大仏開眼の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説がある。 『国家珍宝帳』に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角蕆、陽宝劔、陰宝劔、横刀、黒作懸佩刀、挂甲)ある。このうち光明皇后が死去する半年前の天平宝字3年(759年)12月に出蔵された陽宝劔と陰宝劔は、献物帳にある大刀100口の筆頭に記されていたが、その後の行方は判明していなかった。1907年(明治40年)から翌年にかけて東大寺金堂(大仏殿)盧舎那仏須弥壇の周辺から大刀6口、水晶玉、挂甲残欠などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されている。2010年に元興寺文化財研究所がこのうち金銀荘大刀2口のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の象嵌銘が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽宝劔と陰宝劔であることが確認された。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられている。陽宝劔と陰宝劔は東大寺ミュージアムに保管されている。 正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
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