最後の遠征とは? わかりやすく解説

最後の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)

バイバルス」の記事における「最後の遠征」の解説

1276年7月ルーム・セルジューク朝での内乱破れた貴族ダマスカスへと亡命し、彼らはバイバルスルーム・セルジューク朝への出兵進言した。バイバルス閲兵軍事訓練終えた後、1277年2月エジプトを発つ。バイバルスルーム・セルジューク朝モンゴル支配からの解放遠征名目として掲げたため、マムルーク軍は進軍先の住民危害加えなかったが、アルメニア人はじめとするキリスト教徒には厳し迫害行ったマムルーク軍はルーム・セルジューク朝モンゴル連合軍が陣を敷くジャイハーン河岸目指したが、アブルスターン平原モンゴル軍遭遇4月16日両軍激突した。この戦いでマムルーク軍は勝利を収めた(エルビスターン(アブルスターン)の戦い英語版))。この後カイサリアカイセリ)に入城果たしたバイバルス市民から歓待されセルジューク朝スルターンとして迎え入れられた。しかし、バイバルス予想反してモンゴル報復恐れルーム・セルジューク朝系の領主たちから支持得られず、1277年4月28日バイバルスカイサリアから撤退した帰還途上でアブルスターンを通過した時、モンゴル軍自軍損害微少であると信じさせるため、多く自軍兵士遺体埋めさせた。 6月8日ダマスカス帰国したバイバルスはクミズ(馬乳酒)で祝杯挙げたが、急な腹痛襲われ間もなく没した死因過度飲酒、あるいは毒殺考えられている。バイバルス遺体ダマスカス埋葬されたが、軍の反乱を防ぐためにその死は秘匿され、偽装のためにカイロに戻る軍列の中にはマムルークたちに護衛されバイバルスの籠が加えられた。バイバルスの死から2年後ダマスカスサラディン廟近くバイバルスの墓が建てられたが、バイバルス遺体後世建てられザーヒリーヤ図書館敷地内埋葬されている。 生前バイバルス息子バラカへのスルターン位の世襲望んでおり、1262年配下将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせていた。1275年バラカ配下第一有力者であるカラーウーンの娘を婚約させてバラカ立場堅固にした上で、さらにバイバルス死期が近づいたとき、バラカに「自分軽んじる将軍がいれば、真偽確かめた後に直ち処刑しなさい。誰にも相談してならない」と遺言した遠征隊がカイロ帰国した時にはじめてバイバルスの死が公表され19歳になるバラカスルターン立てられた。しかし、その後継者となったバラカ、さらにその後継いだもう1人バイバルス息子サラーミシュ相次いで短い治世廃位され1279年にはカラーウーンスルターンとなった

※この「最後の遠征」の解説は、「バイバルス」の解説の一部です。
「最後の遠征」を含む「バイバルス」の記事については、「バイバルス」の概要を参照ください。


最後の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 01:49 UTC 版)

ティムールの征服戦争」の記事における「最後の遠征」の解説

サマルカンド帰還したティムール1404年9月クリルタイ開いた西方諸王家束ねたティムールにとって最後課題は旧大元ウルス所領回復であった。そのための東方遠征計画開かれたのである11月27日ティムール20の軍を率いて最後の遠征にでた。ティムール軍には北元皇子オルジェイ・テムルがいた。この年の冬は厳しくティムール軍はオトラル立ち往生になった。この地でティムール重病になり、1405年2月18日波乱満ちた生涯閉じた遠征直ち打ち切られた。なお、オルジェイ・テムル独力でモンゴリア目指し第8代北元ハーンに就いている。

※この「最後の遠征」の解説は、「ティムールの征服戦争」の解説の一部です。
「最後の遠征」を含む「ティムールの征服戦争」の記事については、「ティムールの征服戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「最後の遠征」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「最後の遠征」の関連用語

最後の遠征のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



最後の遠征のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのバイバルス (改訂履歴)、ティムールの征服戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS