最後の遠征
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1276年7月、ルーム・セルジューク朝での内乱に破れた貴族がダマスカスへと亡命し、彼らはバイバルスにルーム・セルジューク朝への出兵を進言した。バイバルスは閲兵と軍事訓練を終えた後、1277年2月にエジプトを発つ。バイバルスはルーム・セルジューク朝のモンゴル支配からの解放を遠征の名目として掲げたため、マムルーク軍は進軍先の住民に危害を加えなかったが、アルメニア人をはじめとするキリスト教徒には厳しい迫害を行った。マムルーク軍はルーム・セルジューク朝とモンゴルの連合軍が陣を敷くジャイハーン河岸を目指したが、アブルスターン平原でモンゴル軍に遭遇、4月16日に両軍は激突した。この戦いでマムルーク軍は勝利を収めた(エルビスターン(アブルスターン)の戦い(英語版))。この後、カイサリア(カイセリ)に入城を果たしたバイバルスは市民から歓待され、セルジューク朝のスルターンとして迎え入れられた。しかし、バイバルスの予想に反してモンゴルの報復を恐れるルーム・セルジューク朝系の領主たちからの支持が得られず、1277年4月28日にバイバルスはカイサリアから撤退した。帰還途上でアブルスターンを通過した時、モンゴル軍が自軍の損害が微少であると信じさせるため、多くの自軍の兵士の遺体を埋めさせた。 6月8日にダマスカスに帰国したバイバルスはクミズ(馬乳酒)で祝杯を挙げたが、急な腹痛に襲われ、間もなく没した。死因は過度の飲酒、あるいは毒殺と考えられている。バイバルスの遺体はダマスカスに埋葬されたが、軍の反乱を防ぐためにその死は秘匿され、偽装のためにカイロに戻る軍列の中にはマムルークたちに護衛されたバイバルスの籠が加えられた。バイバルスの死から2年後、ダマスカスのサラディン廟の近くにバイバルスの墓が建てられたが、バイバルスの遺体は後世建てられたザーヒリーヤ図書館の敷地内に埋葬されている。 生前のバイバルスは息子のバラカへのスルターン位の世襲を望んでおり、1262年に配下の将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせていた。1275年にバラカと配下第一の有力者であるカラーウーンの娘を婚約させてバラカの立場を堅固にした上で、さらにバイバルスは死期が近づいたとき、バラカに「自分を軽んじる将軍がいれば、真偽を確かめた後に直ちに処刑しなさい。誰にも相談してはならない」と遺言した。遠征隊がカイロに帰国した時にはじめてバイバルスの死が公表され、19歳になるバラカがスルターンに立てられた。しかし、その後継者となったバラカ、さらにその後を継いだもう1人のバイバルスの息子サラーミシュは相次いで短い治世で廃位され、1279年にはカラーウーンがスルターンとなった。
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最後の遠征
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「ティムールの征服戦争」の記事における「最後の遠征」の解説
サマルカンドに帰還したティムールは1404年9月にクリルタイを開いた。西方諸王家を束ねたティムールにとって最後の課題は旧大元ウルスの所領の回復であった。そのための東方遠征計画が開かれたのである。 11月27日にティムールは20万の軍を率いて最後の遠征にでた。ティムール軍には北元の皇子オルジェイ・テムルがいた。この年の冬は厳しくティムール軍はオトラルで立ち往生になった。この地でティムールは重病になり、1405年2月18日に波乱に満ちた生涯を閉じた。遠征は直ちに打ち切られた。なお、オルジェイ・テムルは独力でモンゴリアを目指して第8代北元ハーンに就いている。
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