最後の詰め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
フォークスがいつイングランドに戻ったかは不明だが、8月下旬にはロンドンにおり、トマス・ウィンターと一緒に地下室の火薬が腐っていることを発見した。このため、薪に隠してさらに火薬を運び込んだ。一味に最後の3人が加わったのは1605年も9月過ぎのことであった。 聖ミカエル祭(英語版)(9月29日)にケイツビーは確固たる信仰心を持つカトリック教徒のアンブローズ・ルックウッドを説得し、ストラトフォード=アポン=エイヴォン近くのクロプトン・ハウス(英語版)を借りさせた。ルックウッドは国教忌避者たちと繋がりを持つ青年であり、サフォークはスタニングフィールド(英語版)にあるコールドハム・ホールの馬屋の経営者であったことは、蜂起の際の軍馬が必要な一味にとって仲間に引き入れる決定打となった。彼の両親ロバート・ルックウッド(Robert Rookwood)とドロテア・ドーリー(Dorothea Drury)は裕福な地主で、息子をカレー近郊のイエズス会の学校で教育した。2人目のエベラード・ディグビーは人望のある青年で、バッキンガムシャーのゲイハースト・ハウス(英語版)に住んでいた。1603年4月には国王よりナイトの称号を授与される一方で、ジョン・ジェラード神父によってカトリックに改宗していた。ディグビーは妻のメアリー・マルショウ(Mary Mulshaw)と共に、神父の巡礼に同行したことがあり、ディグビーとジェラードは親しい友人であったといわれている。ディグビーはケイツビーに頼まれて、アルセスター(英語版)近郊のコートン・コート(英語版)を借りた。また、パーシーが滞納していたウェストミンスターの物件の家賃1500ポンドを肩代わりした。 最後に仲間となったフランシス・トレシャムは、10月14日にケイツビーに声を掛けられた。トレシャムは裕福なカトリック教徒のトマス・トレシャム(英語版)の息子で、ケイツビーとは従兄弟同士であり、一緒に育った上に共にエセックス伯の反乱にも関与していた。父トマスが亡くなったばかりで、その莫大な遺産を相続したばかりであったが、国教忌避者に対する罰金や高額の嗜好品による放蕩、エセックス伯の反乱の関与で財産を減らしていた。ケイツビーとトレシャムは、トレシャムの義兄であり従兄弟でもあるストートン卿(英語版)の家で会った。後のトレシャムの告白では、ケイツビーに「この計画は彼らの魂を呪うことにならないか」と尋ねたところ、ケイツビーは「そんなことはない」と答え、イングランドのカトリック教徒の窮状を考えるとこれは必要なことだと言っていた、と主張している。また、ケイツビーは2,000ポンドの援助とノーサンプトンシャーのラシュトン・ホール(英語版)の使用を求めてきたというが、トレシャムは両方共に断ったという(ただし、トマス・ウィンターには100ポンドを渡している)。また、尋問官に対し、計画の前に家族をラシュトンからロンドンに移したと話した(もし計画に賛同していたならば、そんなことはしないだろうと弁明した)。 計画の残りの詳細部分は10月にロンドンとダヴェントリー(英語版)の酒場で決まった。フォークスは貴族院地下室の火薬樽に結んだ導火線に火を付けた後、テムズ川を渡って現場を離れる。時を同じくしてミッドランズ地方で反乱を起こし、ディグビー率いる「狩猟隊(hunting party)」がエリザベス王女を確実に確保する。その後、フォークスはヨーロッパのカトリック勢力にイングランドの状況を説明するため、大陸に向かうというものであった。
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