最後の襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:23 UTC 版)
攻撃に参加したメキシコ兵は4、5千人いたと報告されているが、包囲と最後の襲撃に参加したのは1,400人から1,600人だけだった。サン・ルイス・ポトシでの当初の兵力は6,500人だったが病気や脱走で兵が減少した。メキシコ軍の攻城戦は科学的、職業的でナポレオン流に指揮されていた。 輪縄がアラモの周りに締められたためトラヴィス中佐の最後の発信はテクシャン精神の激しい例を含むものだった。彼は「敵は私の降伏を要求した。私はただ一発の大砲で彼らの要求に応えた。私は決して降伏しない」と書いた。 包囲開始から13日目の3月6日の早朝、メキシコ軍の一斉攻撃が開始された。メキシコ軍は隊を4つの部隊と捕獲、追跡、保安部隊に分けアラモを05:00から攻撃した。マルティン・ペルフェクト・デ・コスの率いた300人 - 400人の最初の部隊はアラモの北西の角に向かって進んだ。フランシスコ・デュゲ大佐の指揮する380人が2番隊。第3部隊はホセ・マリア・ロメロ大佐の率いる400人の軍人から成った。4番目はホアン・モラレス大佐によって指揮され100人のカサドレス(軽歩兵)から成った。アラモの壁に達する前に攻撃部隊は200 - 300ヤード (200 - 300m) の広々とした地面をカバーする必要があった。テキサス人の逃亡や援軍の侵入などの試みを防ぐために、サンタ・アナはラミレス・イ・セスマ准将の配下に350騎の騎兵を周囲の田園を警戒させるよう配置した。 寝込みをつかれたテキサス勢は応戦するも劣勢であった。一つの攻撃部隊を押返したが、午前5時には指揮官トラヴィスが頭に銃撃を受け、想像では北の壁近くで大砲の隣で戦死し、ボウイは簡易ベッドに寝ていたところを抵抗むなしく殺されたと信じられている。クロケットは配下の数人と共に捕らえられたが、サンタ・アナの命で処刑された(詳細については議論がある)。サンタ・アナは攻撃を継続し、コスの部隊が北の壁を突破した。接戦の末、女子供とトラヴィスの黒人奴隷を除いて守備隊の男のほとんどすべてを殺して、午前6:30に最後の銃撃戦が終了し、アラモは陥落した。 メキシコ軍は戦闘後、ボウイの奴隷のサム、トラヴィスの奴隷のジョーと24人の女とこどもを解放した。これまで歴史に記されていないが、ジョーはジョンという名の奴隷と別の女奴隷が戦闘で殺されるのを見たと語った。別の報告された生存者はブリギド・ゲレロでテクシャンの運動に加わったメキシコ軍の脱走兵だった。彼は自らの意に反して囚人にされたとメキシコ人の軍人に納得させることができた。さらに、ヘンリー・ウォーネルは伝えられるところ戦場から逃れることができたが、3カ月後に傷が元で死んだ。
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