現代社派との内ゲバ
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「革命的労働者協会(解放派)」の記事における「現代社派との内ゲバ」の解説
1999年6月4日、現代社派が山田を襲撃し、後遺症を残すほどの重傷を負わせた。その後さらに現代社派は私服襲撃部隊を赤砦社派の拠点のひとつであった明治大学駿河台キャンパスに送り、学生活動家を襲撃しようとした(未遂)。一連の現代社派の襲撃に対して6月13日、赤砦社派は『6・13軍声明』を発表し現代社派との「全面戦争」を宣言。以後、両者は活動家の襲撃を繰り返し、14件の内ゲバが発生、2004年の停戦までに双方合わせて10人(両党派各5人)が死亡した(下表参照)。この内ゲバの結果、現代社派は三里塚以外での重要拠点を赤砦社派に奪われ、赤砦社派は学内での内ゲバを口実に大学当局側によって完全に排除された。また、両派ともに相手の絶滅を主張し、小型の出刃包丁やハンマーなどを使用した襲撃を続けたため逮捕者や離脱者が多数出て、組織の維持すら危うくなった。そのため2004年6月2日、現代社派による東京三ノ輪の赤砦社派アジト襲撃(赤砦社派2名死亡。通称6・2三ノ輪事件)を受けても赤砦社派は報復をせず、機関紙上で「今度(襲撃に)来たら死人の山となる」と発表するにとどまった。これは報復を自分の側からはしないとの宣言にも受け取れるため、事実上の停戦が成立したと言われている。さらに2006年初の機関紙上で赤砦社派は「党内闘争は最終決着した」と発表した。6・2三ノ輪事件から現在まで両派間に内ゲバは起きていないものの、公安警察は再燃を警戒している。 現代社派・赤砦社派間の内ゲバ死者数現代社派側赤砦社派側備考1999年2 1 5月 分裂。6月13日 赤砦社派「全面戦争」宣言。7月2日 赤砦社派が現代社派の明大生協理事を殺害。7月21日 現代社派が赤砦社派の明大生協職員を襲撃、翌日死亡。11月14日 赤砦社派が現代社派の福岡県委員会議長を襲撃、26日死亡。 2000年2 2 2月8日 現代社派が赤砦社派の学生活動家を殺害、翌日 赤砦社派が現代社派の襲撃部隊2名を襲撃、1名殺害。8月30日 現代社派が赤砦社派の明大生協従業員組合書記長を殺害。12月10日 赤砦社派が現代社派の革労協総務委員を殺害。 2001年1 0 5月16日 赤砦社派が現代社派の革労協総務委員を殺害 2002年0 0 2003年0 0 2004年0 2 6月2日 現代社派が赤砦社派の活動家3名を襲撃、2名殺害。 小計5 5 合計10 なお、内ゲバの停戦工作は最後の襲撃となった6・2三ノ輪事件の前々から行なわれていたといわれている。2006年3月28日、手打ち担当者だったとされる赤砦社派の岸本修が死亡した。同派は心臓麻痺と発表したものの、手打ち工作で現代社派にだまされ6・2三ノ輪事件につながったことを理由とした粛清によるものと一部から指摘されている。現に警察も全身に皮下出血があったとして赤砦社を翌日に29日に家宅捜索している。しかしこれといった証拠は見つからず現在も真相は分かっていない。 現在では機関紙上を含め、現代社派への言及、批判をほとんど行っていない。現代社派が機関紙上で赤砦社派へ毎号のように非難を書き連ねている(毎号の何らかの記事の見出しに「木元グループ解体・根絶(あるいは「絶滅」)」などとほぼ必ず書かれている)ことと比べて対照的である。こうした罵詈雑言を「無視」することで、赤砦社側が熾烈な内ゲバによる組織的な動揺を回避するためと考えられる。
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