現代社派と赤砦社派の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:19 UTC 版)
「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」の記事における「現代社派と赤砦社派の分裂」の解説
永井殺しは大きな衝撃を与え、人民新聞でも大きく取り上げられた。東アジア反日武装戦線の死刑囚の一人は「一日中、ショックがとまらなかった」と書いた。その後の中核派の革マル派に対するテロの放棄と、大衆運動、労働運動、杉並選挙重視への路線転換、穏健化によって、路線転換を拒否する「唯一の過激派」の狭間派は政治的な孤立を深めていった。 1999年(平成11年)5月、革労協の拠点であった明治大学で「明大ゴスペル愛好会」との闘争が激化した。「明大ゴスペル愛好会」は韓国からの留学生が主体で、キリスト教原理主義の立場に立ち、政治的には反共とシオニズム支持(クリスチャン・シオニズム)であった。革労協は同愛好会を襲撃をするも返り討ちに合い、警察へ突き出されるなどの失態まで出すことになった。そこで明大ゴスペル愛好会への対応をめぐり、闘争をやめて事態の鎮静化を図ろうとする穏健派の山田茂樹ら反主流派(後の赤砦社派)と、徹底抗戦を主張する強硬派の狭間、千木良ら主流派(後の現代社派)が対立。以前から革労協内部でくすぶっていた現代社常任幹部(狭間派)と全学連・寄せ場労働者などのメンバー(赤砦派)の対立が表面化する。特に山田茂樹が個人の判断で勝手にゴスペル代表者と手打ちをしたことで、狭間嘉明の怒りを買い杉並区高井戸の「現代社」での反主流派への査問が始まった。 その際山田ら反主流派は革労協内部での劣勢を立て直すため、ひそかに革労協のシンボルである現代社の乗っ取り計画を立てクーデターを画策した。社防隊が手薄となるゴールデンウィークに狙い定め実行するも失敗。反主流派は逆に外部へと放逐される形で追い出され、現在の台東区下谷の賃貸マンションに新拠点の「赤砦社」を置き、山田茂樹をリーダーとして、革労協の分裂が決定的となった。主流派は現代社派・狭間派、反主流派は赤砦社派・山茂派・木元派などとも呼ばれる。
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