包囲開始
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カルタゴ軍は外部からの救援軍が到着する前にセリヌスに到着し、攻城を開始する前に、アクロポリスの西側の丘に野営した。ハンニバル・マゴはセリヌス攻撃中にシュラクサイあるいは他の都市からの援軍が到着することを恐れ、攻城堡塁を建設しての長期戦は採用しなかった。セリヌスを飢えで降伏させるのではなく、ハンニバル・マゴは攻城兵器を用いて直接攻撃を行うこととした。70年前のヒメラでのカルタゴの敗北を繰り返すつもりはハンニバル・マゴにはなかった。カルタゴ軍は大急ぎで攻撃を開始するのではなく、攻城兵器の組み立てと準備作業に時間を使った。
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包囲開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:08 UTC 版)
完全に孤立したハルツームは1884年3月、アンサールによって包囲された。そして18日、ムハンマド・アフマド自らが指揮したマフディー軍による攻撃が始まった。当初マフディー軍は不慣れなために適切な包囲戦を遂行する能力に欠けており、さらにゴードンの敷設した地雷がマフディー軍を大いに苦しめた。しかし包囲軍の数は増え続け、さらにスーダン北部の部族であるベジャ人がマフディー派に寝返り、ハルツームとエジプトをつなぐ電線を脅かした。ゴードンは和平交渉を行ったが不成功に終わった。 政府はゴードンに包囲を突破して帰還することを求めたが彼はこの街を敵に明け渡すことを断固として拒否した。包囲戦は連日マスコミに取り上げられ、世論と野党保守党はゴードンの救出をグラッドストンに求めた。あくまでもゴードンをハルツームから撤退させようとしていたグラッドストンだがヴィクトリア女王までもがグラッドストンに圧力をかけると遂に屈し、8月5日に下院でゴードン救出のため300,000ポンドの予算が可決され、ガーネット・ウォルズリー率いる救援軍が組織されたが必要な物資や人員を用意するのに手間取り、救援は遅々として進まなかった。 ゴードンはあらゆる手段を用いてハルツームを守り続けていた。彼は武装させた蒸気船を街から繰り出しては沿岸のアンサール陣営に向けて銃撃し、青ナイルを血で染め上げた。そして士気を保つために毎週金曜日と日曜日に広場で軍楽隊による演奏を行ったり、切断された電線をかき集めて街に電信網を構築したことで前線の状況がいち早くゴードンに伝わるようにした。更に空き缶にダイナマイトを詰めて地雷を作り続け、城壁に軍服を着せた人形を並べて敵を欺いた。これらの奮戦により、3月から8月にかけてマフディー軍は大損害を被った。ゴードンは自信をつけ、日記には「私は永遠にここにいる。」と記している。
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