ブラウンの救出作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:16 UTC 版)
このころオーストリア軍では、ベーメン防衛のために急いで軍の態勢を整えるとともに、コリンで軍を集結させていたブラウンにザクセン軍の救援を命じていた。ブラウンはエーガー川南岸のブディンに軍を移動させてプロイセン軍の侵攻に備える一方で、ザクセン軍と連絡を取りつつ救出作戦を検討していた。後に大王が書いているところによれば、このときブラウンには3つの選択肢があった。1、まっすぐブディンから北上してアウシヒに進出しているカイト軍を撃破し、ザクセンに進出してピルナを解囲させ軍を収容する。2、西に大きくカイト軍を迂回してザクセンに進み、同様に解囲させて収容する。3、エルベ右岸に救出軍を別個に構成し、主力部隊で左岸を守り、カイト軍に対峙させている間に救援軍は山を越えて陣地の対岸近くまで接近、ザクセン軍を渡河させて収容する。1は最も単純だが、プロイセン軍主力を撃破するのがまず容易でなかった。2は、カイト軍に側面を突かれるおそれがあり、しかもプラハとの連絡線を露呈してしまうので現実性がなかった。3は、ザクセン軍陣地の対岸の地形が複雑で、内外いずれからも封鎖を突破するのが難しいという問題があった。 ブラウンは初め1の作戦を提案し、オーストリア軍の接近に呼応してザクセン軍が南に包囲を突破可能かどうか打診した。しかしザクセン軍の周囲では、本来期待される突破方向であるピルナからゴットロイバ川に沿う南西正面はプロイセン軍が谷の反対側ですっかり陣地を固めてしまっており、ザクセン軍が打って出ることは不可能だった。ビーラ川に面した南東正面は山そのものであったから突破は難しく、しかも数少ない道はすべてプロイセン軍によって封鎖済みだった。陣地の真南、ゴットロイバとビーラの間隔を埋めているランゲンヘンネルスドルフの陣地を突くならば地形的に多少は実現可能性を持ったかもしれないが、いずれにせよルトフスキーは作戦の実施は困難であると回答し、別の作戦を求めた。そこでブラウンは3の作戦に切り替え、右岸から救出部隊を送り込むことにし、ルトフスキーも了解した。 包囲開始後、しばらく自身で包囲の指揮を採っていた大王であったが、やがてベーメンにおける縦深の確保に目を転じ、ブラウン軍の北上を予想して自身で軍の指揮を執るべくベーメンに赴いて、ピルナ包囲の指揮はカール辺境伯やアンハルト=デッサウ侯子モーリッツに任せた。9月30日ブラウン軍はエーガー川を渡河してロボジッツに進出したところ、南下してきたプロイセン軍と遭遇、翌10月1日のロボジッツの戦いでブラウンは大王に敗れた。ブラウン軍はブディンに後退し、エーガー川の橋を全部落として南岸の守備を固め、一方でブラウン自身はいくつかの部隊を引き抜いてエルベ北岸に移動し、救援軍を構成してザクセンに北上を開始した。 ブラウンとルトフスキーの合意では、オーストリア軍はシャンダウ近辺まで進出してザクセン軍の合図を待ち、ザクセン軍は10月11日の夜に兵を集めてエルベ川に架橋し、右岸に渡河して、翌朝ケーニヒシュタインからの砲撃を合図として両軍でプロイセン軍の封鎖線を挟撃し、オーストリア軍はすみやかにザクセン軍を収容してベーメンに撤退を図るものとされた。エルベ右岸のプロイセン軍は左岸に比べて少数であったから、渡河さえ首尾よく済ませることができるなら、作戦は充分可能なように思われた。ロボジッツの戦いの後のプロイセン軍はエーガー川を前にして攻めあぐね、ザクセン軍の包囲に兵力を取られていることもあってそれ以上の前進はしなかった。会戦には敗北したものの、大王の関心とプロイセン軍の戦力をベーメンに誘引し、かつ遮っている間にザクセン軍を救おうというブラウンの高度な作戦は、前半段階の成功を得ていた。
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