ブラウンGP時代
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ブラウンによるチーム改革が進む最中の2008年12月、ホンダが突然F1からの撤退を発表した。チーム解散の危機が迫る中、ブラウンとフライは存続の可能性を求めてオフシーズンに奔走した。最終的にブラウンがホンダから株式買取りによりチームを取得し、2009年3月6日にブラウンGP・フォーミュラ1チームの設立を発表した。 「ホンダ・RA109」として開発されていたBGP001は「マルチディフューザー」の威力を遺憾なく発揮。デビュー戦のオーストラリアGPでは、ホンダから引き続き残留したジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロが予選全セッションを圧倒、決勝ではバトンがポールトゥーウィンを達成、バリチェロとワン・ツーフィニッシュとなった。新規参入チームのデビュー戦ポールポジションは1970年のティレル、開幕戦優勝は1977年のウルフ、デビュー戦ワン・ツーフィニッシュは1954年メルセデスワークスチーム以来の偉業となった。また次戦マレーシアGPもバトンがポールから勝利し、史上初の新規チーム開幕連勝を果たした。 シーズン後半になるとマシンの開発速度に陰りが見られ、レッドブルの追撃を許す形になったが、シーズン前半での貯金が物を言い、バトンのドライバーズタイトル・チームのコンストラクターズタイトルの2冠を達成した。
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