1422年から1429年にかけてのイングランドの攻勢
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「イングランド・フランス二重王国」の記事における「1422年から1429年にかけてのイングランドの攻勢」の解説
二重王国制の考えはイングランド人と北部フランス人の心の中に等しく新鮮に響き、フランスにおける完全な宗主権の確立と、裏切り者のシャルル7世を罰するという新しい道徳的義務がもたらされた。1420年代に小規模な遠征隊がフランスに派遣され、多くのイングランドのジェントリがスランスの所有地を与えられた。計画案はヘンリー5世下での上ノルマンディーを征服した1417年に支持され、ベッドフォード公によって復活させられた。モン・サン=ミシェルを除くノルマンディーの大部分は安定した。ソンム川の河口にあるル・クロトワはヴァロワ家が掌握していたが、ベッドフォード公が指揮するイングランド軍の手に落ちた。1600人(大部分は弓兵)に及ぶエクセター公率いる別の遠征隊は、ランカスター家が支配するフランス領域を守備するために送られた。ノルマンディーの大部分が明らかにアルマニャック派の勢力圏外であっただけでなく、シャルル7世がブルージュに首都を置く南部のロワール一帯も危うくなりかけていた。 イングランドの戦略はより拡大されたが、その一方でセーヌ川とパリを飛び越えていた。ブルターニュに接する西方の国境も強化された。1424年にベッドフォード公は三部会で、メーヌ・アンジューとピカルディを征服するために軍を派遣することを宣言した。これはメーヌ=ノルマンディー間のヴェルヌイユの戦いに至った。この勝利の後にベッドフォード公は、イングランドの征服者と評価する方が妥当だと判明し始めた。同時にシャルル7世を支援し、彼のために戦ってきたスコットランド人に一撃を与えることになった。ベッドフォード公は広範囲に渡ってメーヌを征服し、ロワールに面したことはヘンリー6世のフランス領域の首都はもはや、イングランド軍の攻勢状態が残っているのと同じくらいの長さの前線であった。ベッドフォード公はノルマンディーの住民を納得させ、ノルマンディーの人々は植民地的支配や租税による財政的重荷を蒙らなくて済むと宣言した。 1422年にヘンリー5世が死んだ後に、ベッドフォード公はブルターニュ公とブルゴーニュ公のランカスター家との関係を強固なものにするために条約を批准した。1423年のアミアン条約でベッドフォード公、ジャン5世、フィリップ善良公の3人は、3者の同盟といずれかの死によって条約が失効することに同意した。同時にヘンリー6世をフランス王と認識し、三者が互いに兄弟のように接し、南方のシャルル王太子の支配地を征服することを確認した。トロワ条約を補強するために、フィリップ善良公の妹アンヌとフランス摂政ベッドフォード公の結婚が同意された。2人の結婚式はヘンリー5世とカトリーヌが結婚式を挙げたトロワ大聖堂で執り行われた。主に政治的動機から行われたこの結婚は、後にベッドフォード公がアンヌよりも14歳も年長であることを無視した恋愛結婚に発展した。 アミアンでの同盟はほとんど完全に掘り下げられたが、同年にブルターニュ公とブルゴーニュ公が会議を開いた際に両派は、仮にどちらかが王太子といつか和解するのなら友好関係を築くことに同意した。中間の時期にブルターニュ公とブルゴーニュ公は共にヘンリー6世を自らの主権者と認識していたが、ブルゴーニュが後にアラスの和平でイングランドとの同意を破棄したにもかかわらず、ブルターニュとブルゴーニュの友好関係は未だ残っていた。 1424年までフランスの所領は、英仏の貴族から庶民に至るまで幅広く売りに出された。1417年にイングランドの移住者はシェルブール、カーン、アルフルールといった沿岸都市の購入地に到着した。しかし、イングランドがフランスを制御する安全上の問題は、イングランドの兵士がフランスの所領の処理のために高く評価された。フランスの完全制覇がより現実に見え始めたのと同じくらいの熱狂は冷め始めた。グロスター公が妻ジャクリーヌの権利を根拠として1424年にホラントへ侵攻した後、アングロ=ブルギニョン関係は緊張し始めた。加えてジャン5世下でのブルターニュの関心の喪失とシャルル7世の交渉は、ブルターニュの軍事的境界を弱体化させることになった。1428年にはスコットランドはシャルル7世への支持を続けており、イングランドとスコットランドの関係は完全に悪化し、スコットランド国王ジェームズ1世の娘とシャルル7世の息子ルイの結婚を提案するためにフランスの使節はスコットランドへ派遣された。 ノルマンディー方面の軍事は今やベッドフォード公、ウォリック伯、サフォーク伯の3人に依存していた。ウォリック伯はブルターニュの攻撃に晒されているシェルブールを守るため、1426年にフランスに上陸した。イングランドと抗争して1年後、ブルターニュは再びイングランドの封臣となることを余儀なくされた。ヴェルヌイユの戦いの後に民間による行政の必要性は少なくなった。1427年にベッドフォード公とその偉大な主人がイングランドに去った後に、守備と守備兵はゆっくりと文官の管理を超えていった。同年にはアンジューへの更なる侵攻を目指す別の方法が描かれた。土着のフランス貴族はアンリ2世を自分達の君主と見做しているが、軍事的行為には否定的であり、イングランド軍兵士が三部会から再び好意的な目で見られるには攻勢を実行する必要があった。このことはベッドフォード公がイングランドに向けて不在の時に決定された。 オルレアンはアルマニャック派の最後の砦であった。ソールズベリー伯はブルゴーニュの同盟軍を加えた2400人で、1428年にオルレアンの包囲を開始した。包囲開始時にソールズベリー伯が死んだことで、アングロ=ブルギニョン軍の規律は崩壊した。ジャンヌ・ダルクの登場でフランス軍は活気づき、これが戦争のターニングポイントとなった。ジャンヌ・ダルクはオルレアンの包囲を解き、シャルル7世はランスで伝統的なフランス王の戴冠式の遣り方で聖別された。このことはウェストミンスターに大変危険なことであると報告された。パリにおけるヘンリー6世のフランス王としての戴冠式がシャルル7世に対する唯一の宣伝による対抗手段であった。ベッドフォード公によって召集された、ボヘミアに送られるべき十字軍はすぐにフランスへ派遣された。ベッドフォード公は十字軍を断られたことに対するローマ教皇マルティヌス5世の怒りに対処する余裕はなかったが、パテーの戦いでの敗北は無視できないものであった。ロワールの出来事は英仏の軍事的体系に試練をもたらした。
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