1422年:フランス王位継承を巡る統治の問題
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「イングランド・フランス二重王国」の記事における「1422年:フランス王位継承を巡る統治の問題」の解説
幼王ヘンリー6世の摂政を巡る問題は、ベッドフォード公、ブルゴーニュ公、フランス身分会議(全国三部会)の会談で解決された。トロワでの取り決めによって、ベッドフォード公がノルマンディーを維持してブルゴーニュ公がフランスの摂政となることが再確認された。ベッドフォード公は、ブルゴーニュ公はノルマンディーの保持者としての自らの地位を放棄するのではないかと、今少し確信を持てないでいた。そこで5日後にベッドフォード公は、自らのイングランド及びフランスの摂政としての布告をロンドンに送った。ベッドフォード公はヘンリー5世に反対する理由がなかったが、仮にフランス王の摂政になれなかったら、イングランド王の摂政になることになっていた。当時、ベッドフォード公は自らを未だに「ノルマンディーの支配者」と見做しており、布告から6ヶ月後の11月1日にノルマンディーの長官はロンドンへ派遣された。ベッドフォード公は甥の英仏王ヘンリー6世のフランスにおける摂政として姿を現した。同時にトロワ条約が再確認され、ベッドフォード公は11月19日に“パリ高等法院”においてフランスの摂政として統治し、フランスを良い方向に導くために身を捧げることになった。 フランス王シャルル6世から直接引き継ぐことになったトロワ条約と、1422年に法的なフランス王冠号が含まれるフランス王位を継承したことによって、ヘンリー6世は今やノルマンディーとガスコーニュを束ねるフランス王となった。ベッドフォード公は満足し、イングランドへの帰国を求めなかったが、司教ヘンリー・ボーフォートと論じるために1425年だけイングランドに戻った。フィリップ善良公は父を王太子(この時には“自称”フランス王シャルル7世)の部下に殺された後、イングランドの支援を必要としていたために、イングランドが望んでいた通りほとんど反抗することが出来なかった。ヘンリー5世の取り決めには致命的な欠点があった。最後の数日に至るまで、ヘンリー5世はシャルル6世よりも早く死ぬとは思ってもいなかったのである。その上、条約は死の淵にあるヘンリー5世の自由を制限していたのである。ヘンリー5世が作った取り決めには短期の場合(シャルル6世が死ぬまで)と長期の場合(ヘンリー6世が英仏両王になった時)を含んでいた。これがブルゴーニュ公国がイングランドと同盟し、戦場では一貫してイングランド側に立った主な理由であった。 シャルル6世の死はアングロ=ブルギニョン同盟、及び法的なイングランド・フランス連合王国に影響を与えることは決してなかった。ブルゴーニュ人モントルレは同時代の唯一の記録に、ブルゴーニュ公はベッドフォード公を摂政とさせるためにフランス王の摂政となることを断念した、と記されている。ブルゴーニュ公は死の淵にあるヘンリー5世の最後の言葉の記録を求めていたのではないかとの疑問が募る。また、直接記録された演説は、ブルゴーニュ公の猜疑心を更に掻き立てた。これはグロスター公ハンフリーを侮辱させ、その上ヘンリー5世がエクセター公トマス・ボーフォートをイングランドの摂政にとどめる発言をしたことが一層の拍車をかけた。しかし年代記は、1425年にグロスター公がネーデルラントに侵攻したことでブルゴーニュ公の敵愾心を掻き立て、後の1436年にカレーを攻撃したブルゴーニュ公をグロスター公が撃退したと記している。これは事実を歪めている。モントルレはブルゴーニュ公国の自尊心を高め、何故ブルゴーニュ公は1422年に摂政を蹴ったのか説明しようとする。セント・オールバンズ(サン・トーバン)修道院の年代記は、ブルゴーニュ公はフランスの摂政に一度も委任されなかったと記す。しかしこの年代記はシャルル6世の死の数週間前で終わっており、その背景は記されていない。ヘンリー5世は明確にはフランスの摂政を指名していなかったのかも知れないが、ベッドフォード公は反対を受けなかった。
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