イングランドの摂政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 06:22 UTC 版)
「ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)」の記事における「イングランドの摂政」の解説
1216年11月11日、ウィリアムは摂政として幼いヘンリー3世に仕えることになった。既に70歳近くの老齢ながら、イングランド王位を狙うフランス王太子ルイ(後のルイ8世)と反乱貴族達を相手に精力的に戦った。リンカーンの戦いでは、若い騎士達と共に先頭に立って戦い、勝利に貢献した。ウィリアムはドーバー海峡で戦っていたヒューバート・ド・ブルースが勝利していたなら、ロンドンを占拠するルイ王太子を包囲する準備まで整えていた。1217年には、ルイや反乱した貴族達を厳しく非難することもなく、寛容の心で許している。 だが、ウィリアムの狙いはむしろ早期の和解にあったという記録が残っている。節制と相手への譲歩はウィリアムの政策の中心であり、若いヘンリー3世に対する安全と平和を望んだ。1217年にマグナ・カルタが再発行された際、証人としてサインしてもいる。ウィリアムの存在なしには、イングランドはジョンの悪政によって崩壊していた可能性もあるとされる。フランス王と反乱貴族達は王の言葉でなく、ウィリアムの方を信用していた。
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