イングランドの教皇庁離脱を推進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:58 UTC 版)
「宗教改革議会 (イングランド)」の記事における「イングランドの教皇庁離脱を推進」の解説
第1会期の12月に早くも聖職者が俗人の生業を兼任することを禁止する法案、任地へ行かない不在聖職者が聖職禄を受け取る行為を取り締まる法案が聖職者会議(英語版)やロチェスター司教(英語版)ジョン・フィッシャーの反対を押し切って庶民院で可決された。1530年に王はウルジーに教皇特使の権限を認めたという理由で、イングランド国内の聖職者全員を教皇尊信罪にかけて告発、翌1531年に告発取り消しを願い12万ポンドを支払う聖職者会議に対し、自分をイングランド教会最高の首長と認めさせることを要求して承諾させ、告発を取り消して12万ポンドも受け取った。この時の最高の首長は聖職者の世俗問題に関することのみ使う表現だったが、王の教会支配強化を示していた。 1532年1月に開かれた第3会期で、クロムウェルは教会への告発を盛り込んだ庶民院の請願「教会裁判権に反対する庶民院の嘆願書」を起草して王に提出、受け取った王は聖職者会議に請願を送った上で服従させ(聖職者の服従(英語版))、教会の立法権を事実上剥奪した。議会は司教が叙任された最初の年に年収を教皇へ上納する初収入税(英語版)も初収入税上納禁止法制定で禁止したが、聖職者が議席を持ち、教皇との対立を恐れる貴族院、皇帝の怒りを買いイングランドとネーデルラントの羊毛取引が停止される事態を避けたい庶民院両院が抵抗した。王は議会に干渉して強引に法案可決、法案は仮禁止法という形を取った上で成立、施行は延期という妥協を重ねたが、以後議会はクロムウェルの手でイングランドを教皇からの独立に導く方向へ誘導され始めた。同年、ウルジーの後任の大法官トマス・モアはカトリック教徒の立場から議会の進行を憂い、聖職者が服従した頃に病気を理由に辞職した。 この間アンの妊娠が発覚、彼女との子を嫡出にするため離婚・再婚を進める必要に迫られた王は1533年1月にカンタベリー大司教トマス・クランマーの立ち合いでアンと極秘結婚した。続いて2月に開かれた第4会期でクロムウェル起草の法案が3月に提出、4月に上告禁止法として制定された。教皇庁への上告禁止と教会裁判の最高決定権が王にあると定めたこの法により、イングランドは教皇からの独立を宣言、5月にクランマー主宰の法廷で王とキャサリンの結婚無効およびアンの結婚の合法が宣言された(9月にアンはエリザベス王女(後のエリザベス1世)を出産)。これを認めない教皇から王は破門されたが、イングランドの教皇庁離脱はこの後も続く立法で加速していった。 1534年1月に開かれた第5会期では初収入税上納禁止法が正式に制定、聖職者の服従を立法した聖職者服従法、キャサリンの子メアリーを庶子としてエリザベスを王位継承者とする第一継承法も制定、11月に開かれた第6会期で王を最高の首長と明文化した国王至上法が成立、教皇庁と正式に決別してイングランド国教会が創設された。一方、王を最高の首長と認めない者を大逆罪にする反逆法も制定、ジョン・フィッシャーとトマス・モアは第一継承法への宣誓を拒否したためロンドン塔へ投獄、フィッシャーは翌1535年6月22日に処刑、モアも国王至上法について沈黙したことが反逆法に抵触、7月6日に処刑された。
※この「イングランドの教皇庁離脱を推進」の解説は、「宗教改革議会 (イングランド)」の解説の一部です。
「イングランドの教皇庁離脱を推進」を含む「宗教改革議会 (イングランド)」の記事については、「宗教改革議会 (イングランド)」の概要を参照ください。
- イングランドの教皇庁離脱を推進のページへのリンク