イングランドの王政復古
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 06:56 UTC 版)
「ジョン・エンデコット」の記事における「イングランドの王政復古」の解説
1660年7月、国王チャールズ2世が王政復古でイングランドの王座に返り咲いたという報せがボストンに届いた。これは、クロムウェルを支持してきた植民地の全てについて、その認証が取り消される可能性があったので、即座に大きな関心を呼んだ。ボストンでは、チャールズ1世の処刑に賛成票を投じた「国王殺し」コミッショナーであるエドワード・ホエイリーとウィリアム・ゴフの2人がいたので、より難しい問題が生じた。 1660年、チャールズ2世はブレダ宣言でイギリスの議会の法による場合を除いて全ての者が許されると約束したが、免責・大赦法は罰を与えるべき国王殺し全てを選び出していた。ホエイリーとゴフは一時期自由にボストン地域を動いており、エンデコットは彼らの逮捕命令を出すことを拒んでいたが、そこに免責法が成立したという報せが届いた。エンデコットはその後の1661年3月8日に彼らの逮捕令状を発行させた。ホエイリーとゴフが前もってその令状について警告されていたかは不明だが、彼らは逃亡し、ニューヘイブン地域に行った。 エンデコットの令状の後にチャールズ2世が3月に発した命令が1661年5月にはエンデコットの元に届き、それには2人の逃亡者を拘束し、船でイングランドに送り返せという直接の命令が入っていた。エンデコットはそれに粛々と従ったが、到着したばかりだった王党派の2人をその役目に指名した。幾分予測されたとおり、彼らの捜索はむなしいものとなり、ホエイリーとゴフは逃亡した。伝記作者のローレンス・メイヨーは、エンデコットが彼らの逮捕を真面目に考えておれば、別の者をその任に当たらせただろうと述べている。 マサチューセッツにおけるピューリタンの支配に反対する者は、新しい国王にその苦情を伝えるに積極的だった。その苦情の中には、チャールズ2世が権力の座に昇ったことが正式に公表されていないという事実もあった。これはエンデコットが国王から叱責する命令を受け取った後の1661年になって起きたことだった。そのために議会が国王に宛てて称賛する手紙数通を起草し、国王が権力の座に就いたことを祝った。造幣所はイングランドの良質の貨幣の価値を下げる厚かましい試みだったと主張され、1652年の植民地領域の拡大は土地の取得以上のものではなかったと苦情を言う植民地人がおれば、インディアンのキリスト教徒改宗のために国王から与えられた資金に関して管理上の違法行為があったという者もおり、またクエーカー教徒は長い憤懣のリストを作った。エンデコットやその他古い衛兵のメンバーは告発を無視するのが最良の方法と考え、それら告発に対して論ずるためにロンドンに代表を送ることに反対した。そのアイディアに賛成する者達は個人献金で資金を集め、ロンドンに代理人を送った。 後に総督になったサイモン・ブラッドストリートやジョン・ノートン牧師が率いた植民地代表団はその任務に成功し、チャールズ2世は植民地でイングランド国教会の礼拝を行うことを認めれば、その認証を更新すると宣言した。エンデコット政権はその実行に消極的であり、何もしないまま数か月が過ぎた後、国王は植民地の最も声高な批判者の1人であるサミュエル・マーベリックを長とする委員会を調査のために派遣した。エンデコットは前もってその委員会が何を調査するかを知らされており、実質上ではないとしても予測される行動の幾らかを形式的に行う段階を踏んだ。チャールズ2世は宗教的異端者全てが自由となることを主張した。それはマーベリックが到着するずっと前にエンデコットが実施していたが、彼らを追放することでそうしていた。コミッショナー達が到着したとき、議会は植民地でイングランド国教会が行動することを認める案件を取り上げた。この法案は慎重に国王の言葉を使って成立し、植民地でだれでも「宗教における正統」を実行できることになった。しかし地方の牧師に許容される見解で構成されるような正当性も定義していた。イングランド国教会がその正当性という概念を満足させるということに合意できるような牧師はおそらく植民地にいなかったので、このことは実質的に法を否定していた。
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