1421年の遠征と崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 16:13 UTC 版)
「ヘンリー5世 (イングランド王)」の記事における「1421年の遠征と崩御」の解説
イングランド滞在から4ヶ月後の6月10日、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が3月22日のボージェの戦いで討ち取られていたため報復の意味もあった。7月から8月にかけてヘンリー5世の軍はドルーを制圧し、シャルトルで同盟軍を支援した。その年の10月にはモーを包囲し、7ヶ月もの長期間包囲した末の翌1422年5月2日に攻略した(モー包囲戦)。 ところが同年8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外のヴァンセンヌの森で、モー包囲戦の際に感染していた赤痢にて崩御した。34歳であった。わずか数か月前に、息子ヘンリー6世の名前で弟のベッドフォード公ジョンをフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱な義父シャルル6世よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。 キャサリンはヘンリー5世の亡骸をロンドンに運び、11月7日にウェストミンスター寺院に埋葬した。ヘンリー5世の崩御後、キャサリンは1437年に死ぬまでウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと密接な生活を送ったが(密かに結婚したかも知れない)、彼らの孫こそが後にテューダー朝を開いたヘンリー7世である。
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