包囲網突破
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1944年5月23日05:45、連合軍の1,500門からなる砲撃が開始された。40分後、砲撃は停止し、近接航空支援の下、歩兵および機甲部隊は進撃を開始した。初日から激戦となり、第1機甲師団は100台の戦車を失い、第3歩兵師団は955名の死傷者を出した。これは第二次世界大戦中、アメリカ軍が一日で被った損害のなかでもっとも大きなものだった。ドイツ軍もまた第362歩兵師団の戦力の50%を失った。 ドイツ第14軍司令官マッケンゼンは連合軍の主攻勢がヴィア・アンツィアーテを目指していると確信し、5月23日と24日のイギリス軍による大規模な陽動作戦がそれを裏付けているように思わせた。しかしケッセルリンクは連合軍の狙いはルート6を獲ることと確信し、ヘルマン・ゲーリング師団に対してリヴォルノからヴァルモントーネ方面に240kmの地点で停止し、カッシーノから撤退してくる第10軍のためにルート6を確保しておくよう命じた。 5月25日午後、チステルナは陥落した。アメリカ軍第3師団は家屋を一軒一軒しらみつぶしにしてドイツ軍第362歩兵師団を追い出し、最終的に街から撤退させた。同日の終わりまでに第3師団はコーリ近くのヴェッレトリの前線に開いたギャップに向かって進撃しており、第1機甲師団の一部はヴァルモントーネから5km以内の位置まで達し、リヴォルノに到着し始めていたヘルマン・ゲーリング師団の部隊と接触した。アメリカ第6軍団は3日間で3,300名を超える損害を出しながらも「バッファロー作戦」は進行しており、トラスコットは第1機甲師団と第3歩兵師団が翌日にはルート6に進出する事に自信を持っていた。 5月25日夕刻、トラスコットはクラークからの新しい命令を作戦将校ドン・ブランド准将経由で受け取った。そこには事実上「タートル作戦」を実行すること、そして攻撃の主軸を90度左へ転進させよとあった。もっとも重大な点は、ヴァルモントーネおよびルート6への進撃は第3歩兵師団とそれをサポートする第1特殊任務部隊により続行されるが、第1機甲師団は新しい攻撃計画の準備のために一旦後退するということだった。クラークは5月26日の朝遅く、命令の変更が“既成事実”になってしまった頃に、アレクサンダーに対し状況を報告した。 この時、トラスコットは驚いたとのちに述べている。「……私はあぜんとした。いまだ強力な敵のいる北西に進んでいる場合ではなかった。我々は退却するドイツ軍を確実に壊滅させるために全力でヴァルモントーネ戦線のギャップに攻め込むべきだった。私は最初にクラーク将軍と直接話し合うまで命令に従わなかった。……(しかし、)彼は海岸堡におらず、無線さえ通じなかった。……上陸部隊の主攻撃目標をヴァルモントーネ戦線のギャップから変更するというような命令は、ドイツ軍第10軍をみすみす見逃してしまうものだった。26日に命令は実行に移された。」彼は書きつづけた。「これまで私は、クラーク将軍がアレクサンダー将軍の指示に忠実に従っているということに何の疑いも持たなかったが、彼はアンツィオの戦略目標をすべて制圧した5月26日に私の攻撃方向を北西に変更した。最初にローマに入ることはこの失われたチャンスのささやかな埋め合わせでしかなかった。」 5月26日、アメリカ第6軍団が困難な転進を始めた頃、ケッセルリンクはルート6への敵進撃を食い止めるために4個師団の一部をヴェッレトリの前線のギャップに送り込んだ。5月30日に撤退するまでの4日間、彼らはアメリカ軍第3師団を相手に戦い抜き、第10軍団の7個師団が撤退し、ローマ北へ向かうまでルート6を確保しつづけた。 新しい攻撃軸は第1機甲師団が5月29日にカエサル・C・ラインの主力守備隊と対峙する配置につくまでほとんど前進しなかったが、いずれにせよ5月30日にフレッド・ウォーカー少将指揮のアメリカ軍第36歩兵師団がカエサル・C・ラインの第1降下猟兵軍団と第76装甲軍団との間にギャップを見つけるまでは大きな進展はありそうになかった。彼らはアルテミシオ山の急斜面を登りヴェッレトリの背後を脅かし、守備隊を撤退させた。これがターニングポイントとなった。フォン・マッケンゼンは自らの辞任を具申し、ケッセルリンクはそれを受理した。 5月25日、更なる圧力をかけ、クラークはグスタフ・ラインの海岸沿いで戦闘中だったアメリカ第2軍団を、アルバーノ丘陵右側周辺からルート6沿いにローマに進撃させるため第6軍団と合流するよう命じた。
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