包囲網の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 23:14 UTC 版)
アレシアは2本の川に挟まれた丘の上に作られた要害の都市だった。強襲をかけても損害を出すだけと見たカエサルは、包囲線を築いて敵の消耗を待つ作戦を選択した。ウェルキンゲトリクスのガリア軍80,000人とアレシアの本来の住民が包囲下にあり、それだけ兵糧の消耗も激しいと考えたのである。 アレシア包囲線については『ガリア戦記』に極めて詳細な記述がある。 総延長18キロメートル、高さ4メートルの土塁を築き、アレシア全体を囲んだ。土塁は木材と石材で強化され、敵兵が取り付けないように逆茂木が植えられていた。 土塁の手前には幅4.5メートル、深さ1.5メートルの壕を2列掘り、アレシア側の壕には川から引いた水を満たした。 2列の壕の手前には、深さ1.5メートルの壕が5列掘られ、底には引き抜けないように根元を結び合わせた逆茂木を並べた。これは「墓標」(Cippi)と呼ばれた。 墓標の手前には、深さ1メートルの穴を1メートル間隔で市松模様に8列掘り、底には先の尖った杭を埋め、穴の上は小枝や草でカモフラージュした。これは「百合」(Lilium)と呼ばれた。 百合の手前には、両端に鉄製の鉤をつけた杭が大量に打ち込まれた。これは「刺」(Stimulos)と呼ばれた。 刺の先からアレシアまではある程度の空白地帯を設け、その先に幅6メートルの壕を掘った。 土塁内の各所には防御拠点となる監視所を23ヶ所、出撃拠点となる野営地を7ヶ所設け、包囲線のどこに攻撃が加えられても救援が送り出せるようにした。 ローマ軍はおよそ3週間でこの大土木工事をやり遂げた。専門の工兵将校を置くほど陣地設営を重視したローマ軍だからこそ可能であった。 ウェルキンゲトリクスは工事を妨害するために何度か騎兵を送り出したが、ゲルマン騎兵の奮戦によってことごとく撃退された。内側からの包囲線の突破は不可能と判断したウェルキンゲトリクスは、同盟部族へ解囲軍を要請する使者を派遣した。 第一の包囲線が完成すると、ローマ軍は今度は解囲軍の攻撃を防ぐため、外周部に同様の土塁・壕・墓標・百合・刺を設けた。外周部の土塁の総延長は21キロメートルに及んだ。こちらも内周部と同様に3週間ほどで完成した。これによってアレシアは二重の包囲線で完全に取り囲まれることとなった。工事が完成すると、カエサルはローマ軍60,000人の30日分の食料を運び込ませ、外との連絡を断たれても抵抗できるようにした。 包囲下にあるアレシアでは、人心の動揺、居住環境の悪化、食糧不足といったいくつかの深刻な問題が生じていた。ウェルキンゲトリクスは、軍内の意見を採用し口減らしのために戦闘に耐えられないアレシアの本来の住民であったマンドゥビイ族を都市から追い出すことにした。都市から追い出されたマンドゥビイ族は、奴隷になるから食糧を恵み、助けて欲しいとローマ軍に懇願したが、カエサルはこれを無視した。
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