包囲突破、ベルギー凱旋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 17:38 UTC 版)
「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「包囲突破、ベルギー凱旋」の解説
リッペールSS少佐の戦死後、レオン・デグレルSS大尉は旅団の指揮を引き継いだ。デグレルはノヴォ=ブダ近辺を突破しようとするソビエト赤軍を撃退した後、夜陰に乗じて旅団の残存兵のグループの1つを指揮して後退を開始した(他のグループの1つはジュール・マチューSS中尉が指揮した)。しかし、その途上で「ヴァロニェン」旅団の残存兵はソビエト赤軍の激しい砲火にさらされた。最終的に彼らは包囲網を突破して友軍戦線に到達したが、1943年11月の時点で約1,850名いた旅団の将兵のうち、わずか632名が生還したに過ぎなかった。 SS突撃旅団「ヴァロニェン」はコルスン包囲戦で甚大な損害を被ったが、デグレルはこの戦いにおける功績を認められ、1944年2月20日付で第三帝国総統アドルフ・ヒトラーより直々に騎士鉄十字章を授与され、さらに同年4月20日付でSS少佐への昇進が約束された。また、戦死した旅団長リュシアン・リッペールSS少佐に対しては、1944年2月20日にブリュッセルで葬儀が執り行われ、ドイツ十字章金章の追贈とSS中佐(SS-Obersturmbannführer)への特進が施された。 その後、ドイツはレオン・デグレルをヨーロッパの英雄として宣伝するキャンペーンを開始し、デグレルはパリやブリュッセルの集会場で10,000名を超える聴衆にSS突撃旅団「ヴァロニェン」の活躍を語り、共産主義に対する戦いへの新たな参加者を募った。 この頃、ソビエト連邦は「ヴァロニェン」旅団がコルスン包囲戦で全滅したと宣伝し、それを受けたイギリスのBBCもデグレルの戦死を伝えていた。これら敵側諸国の宣伝に対抗するため、第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」(5. SS-Freiwilligen-Sturmbrigade „Wallonien“ )はベルギー駐屯中の第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」から装甲車輌を借り、1944年4月1日から2日にかけてシャルルロワ~ブリュッセルにおいて凱旋パレードを行った。 1944年春、第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」の残存兵は再編制のためにヴィルトフレッケン演習場へ戻った。
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