包囲網の瓦解から再構築まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 08:10 UTC 版)
「信長包囲網」の記事における「包囲網の瓦解から再構築まで」の解説
こうして天正元年末には包囲網は実質的に瓦解した。しかし、生き残った本願寺は顕如の指導の下石山本願寺に篭り、各地の一向門徒を決起させて信長に対する対立姿勢を強めていった。特に天正2年(1574年)1月に発生した越前一向一揆は5月までに越前を占領し、従前より本願寺の影響下にあった加賀を含めて北陸で強大な地盤を築こうとした。しかし、包囲網の瓦解により、圧力を受けることが少なくなっていた信長はこうした一向一揆に対して積極的な反撃に出て、石山本願寺を配下の塙直政を中心とする部隊に包囲させると共に、長島一向一揆を天正2年9月に、越前一向一揆を天正3年(1575年)5月ごろまでに鎮圧し、本願寺の影響力を削いでいる。 また、信玄が死んだとはいえ武田氏は勝頼の下で依然として強大な勢力であり、徳川領の三河、遠江へ度々侵攻して家康を悩ませていた。特にこの時期に遠江の要衝高天神城が陥落しており、家康は苦戦していた。しかし、続いて天正3年に勝頼が三河の長篠城へ侵攻したことがきっかけとなって発生した長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍の前に勝頼は敗北を喫している。勝頼は直後の岩村城の戦い、二俣城の戦いで東美濃の要衝岩村城と遠江の要衝二俣城を失ったこともあり、これ以後、家康との戦いは続けるものの、中央の信長包囲網に積極的な関与はできなくなっている。 一方、天正元年に京都を追放された足利義昭は信長の護衛の下、まだ三好義継が健在だった若江城に移送された後、和泉堺、紀伊興国寺へと転々とし、最終的には天正4年(1576年)になって毛利輝元を頼り、毛利氏の庇護下に入って、当時毛利領だった備後鞆へと移っている。
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