包囲網形成の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:31 UTC 版)
麻生包囲網の下地は、安倍退陣・総裁選の幕開けよりも前からできていたとも言える。 2007年の参院選で自民党敗北が濃厚になってきた時点で、青木幹雄・森喜朗・中川秀直の3人には安倍をおろし、福田を擁立してこの難局を乗り切ろうとする構想が出来上がっていた(安倍おろし)。しかし、安倍の盟友である麻生(当時は外相)が首相の続投を勧めたために、この構想は頓挫し、青木や森の思惑は麻生によって封じられてしまう。 一方、安倍政権下で非主流派であった山崎拓・古賀誠・加藤紘一ら(いわゆる新YKK)は参院選の惨敗や内閣改造後も連発した閣僚の不祥事を受け、安倍と共に麻生の連帯責任論を唱え、同じく非主流派の谷垣禎一や、安倍とは路線の異なる福田康夫の擁立を模索していた。 また、古賀は小泉純一郎との政争に敗れて政界引退していた野中広務に連絡し、派閥間の調整を依頼した。上京した野中はTBSの時事放談で麻生クーデター説を引用して麻生を酷評し、福田支持を表明した。 安倍の首相辞任後、福田擁立で党内をまとめたい青木=森ライン(町村派=津島派連合)と、新YKK(非主流派連合)の思惑が一致し、この2つの勢力を核として麻生包囲網が成立するのである。最大派閥・町村派の事実上のオーナーであった森は自派閥から3人連続して総理総裁を輩出していることから、派閥会合で町村派議員が積極的に後継総理を擁立する言動を自粛させ、他派からの町村派への反発に配慮した。包囲網形成のイニシアティヴは、あくまで新YKKの側にもたせた。こうして彼らの顔を立ててつつ、一気に福田優勢の動きを作り出したのである。 ただし、安倍晋三の盟友である中川昭一や菅義偉、鳩山邦夫らは派閥よりも自らの思想信条が近い麻生を支持し、総裁の推薦人となった。
※この「包囲網形成の背景」の解説は、「麻生包囲網」の解説の一部です。
「包囲網形成の背景」を含む「麻生包囲網」の記事については、「麻生包囲網」の概要を参照ください。
- 包囲網形成の背景のページへのリンク