自由民主党総裁
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自由民主党総裁(じゆうみんしゅとうそうさい、英語: President of the Liberal Democratic Party)は、日本の政党である自由民主党の党首。
注釈
- ^ 就任時に前任者の残任期間を引き継いだ場合、その残任期間は算入されない。よって、この場合には、その残任期間に加えて最長で3期まで連続で在任できるため、最長で通算12年近く連続で在任できることになる。なお、一度退任した後の再就任については制限はなく、再就任の場合には、任期のカウントがリセットされる。
- ^ 1956年4月5日までは総裁代行委員が総裁職を代行した。
- ^ 比較第一党とは、過半数には達しないものの全ての政党のうち最も議席数の多い党のことである。
- ^ 第21代総裁の安倍晋三が退任後に再び第25代総裁となったため、以降の代数と人数には差異がある。
- ^ 1956年1月28日に死去後、後任に松野鶴平(旧自由党)が1956年2月10日から就任。
- ^ 日本国憲法下で最初の、任期満了により失職した衆議院議員。
- ^ a b c 在任中に逝去、副総裁の西村英一が総裁代行に就任。
- ^ 総裁就任後、森派を離脱。
- ^ 麻生は第45回衆議院議員総選挙に大敗し、野党に転落した責任を取って、首相指名選挙を前に2009年9月16日午前に総裁を辞任[7][8]。麻生が後継総裁の選出を待たずに総裁を辞任したため、総裁は同日から後継総裁に谷垣が選出された9月28日まで空席となった。9月16日午後[9]に特別国会で行われた首相指名選挙では、自民党は党総裁が空席のため、党両院議員総会長(当時)の若林正俊に投票した。
- ^ 麻生は第45回衆議院議員総選挙に大敗し、野党に転落した責任を取って、首相指名選挙を前に2009年9月16日午前に総裁を辞任[10][11]。麻生が後継総裁の選出を待たずに総裁を辞任したため、総裁は同日から後継総裁に谷垣が選出された9月28日まで空席となった。9月16日午後[12]に特別国会で行われた首相指名選挙では、自民党は党総裁が空席のため、党両院議員総会長(当時)の若林正俊に投票した。
- ^ 一度退任した総裁(第21代)が再就任した唯一の例。
- ^ 所属派閥の清和政策研究会は、町村信孝の衆議院議長就任により細田博之が後任会長に就任したため、通称が細田派となる。
- ^ 大平総裁は鈴木の幹事長起用を望んだが、反主流派が鈴木は田中に近いとして反対し断念。総務会長には3度就任。
- ^ 第1次大平内閣組閣の際、蔵相の提示を受けたが幹事長を要求し就任せず。
- ^ なお、このハプニング解散によって施行された衆参同日選挙中、総理・総裁の大平が急死するという事態となり、総理としての政務は内閣官房長官であった伊東正義が内閣総理大臣臨時代理として代行し、総裁としての党務は党副総裁であった西村英一が代行した。このため、結果的に総理・総裁の権力が分離する事態が生じた。この状態は、選挙後、西村裁定によって鈴木善幸が総裁として選出されるまで続いた。
- ^ 麻生は2009年9月16日午前、同日午後に行われる首班指名に先立って総裁を辞任した。
- ^ 安倍(第21代・第25代)が2回総裁を務めたため、代数と人数は一致しない。
出典
- ^ 党則・総裁公選規程
- ^ 中野光樹 (2020年9月10日). “「総理」と「総裁」似て非なる2つのポスト【記者が解説!】”. TBS (YouTube)
- ^ a b “党則”. 自由民主党 (日本) (2017年3月5日). 2021年10月4日閲覧。
- ^ a b “自民党 総裁任期3期9年、延長決定 首相在任が21年まで可能 「改憲発議へ議論」”. 毎日新聞. (2017年3月6日) 2021年10月4日閲覧。
- ^ “安倍内閣が総辞職 連続在任最長、2822日で幕”. 日本経済新聞. (2020年9月16日) 2021年10月4日閲覧。
- ^ 自民党の歴史 自由民主党
- ^ “麻生首相、16日午前に総裁辞任”. 四国新聞社. (2009年9月8日) 2020年8月30日閲覧。
- ^ “麻生首相、16日に自民総裁辞任 首相指名選挙の直前”. asahi.com(朝日新聞社). (2009年9月8日) 2020年8月30日閲覧。
- ^ “第93代首相に鳩山由紀夫氏”. ネットアイビーニュース. (2009年9月16日) 2020年8月30日閲覧。
- ^ “麻生首相、16日午前に総裁辞任”. 四国新聞社. (2009年9月8日) 2020年8月30日閲覧。
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- ^ 朝日新聞政治面連載「政々流転」、2013年11月10日付け「野田聖子・自民党総務会長 体験から語る女性政策」
- ^ 村上誠一郎衆院議員に聞いた次期総理候補と「Y・M・O」で構想する超党派勉強会NEWSポストセブン
- ^ 石破氏“離党歴隠し”に批判噴出「不正直」 特設サイトに新党形成の過去は不掲載 自民党総裁選zakzak
- ^ 「安倍さんが総裁選で負けていたら、菅さんは維新に入っていたはず」 元首相二人と“維新”との蜜月の原点 AERAdot.
- ^ “9年ぶり自民応接室に/海部元首相の写真”. 四国新聞社 (2003年11月17日). 2020年11月5日閲覧。
総理総裁
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詳細は「石橋内閣」を参照 1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退した。これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補した。これに対し石橋は、さらに中華人民共和国など他の共産圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位で、1回投票では岸が1位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし、前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、さらに石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって、日本を反共の砦とするために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理がなくなり、副総理には岸が就任した。 内閣発足直後に石橋は「全国民を包括する総合的な医療保障」を演説した鳩山の路線を継承して、同年1月8日に国民皆保険を目指すことを閣議決定するなど福祉国家建設、さらに対米自主外交では日中貿易を促進する世界平和の確立などを基本とした「五つの誓い」を掲げ、具体的には経済政策では池田勇人を大蔵大臣に抜擢して「1000億円施策、1000億円減税」として積極財政を行うとし、全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。同年1月25日、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない状況での辞任表明には、野党でさえ好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・桂太郎・羽田孜に次ぐ歴代で4番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相にもなった。後任の首相には岸が任命され、居抜き内閣として第1次岸内閣が誕生した。 石橋は昭和初期に『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃され「帝国議会」への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して、「議会運営に支障をきたし、潔く退陣すべし」とする、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。
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