保革伯仲と党内抗争とは? わかりやすく解説

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保革伯仲と党内抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:24 UTC 版)

自由民主党 (日本)」の記事における「保革伯仲と党内抗争」の解説

佐藤長政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫四人立候補し日本列島改造論日中国交正常化掲げた田中総理総裁就任した田中内閣成立早々1972年昭和47年9月には日中共同声明発表した。この動きに対して1973年昭和48年7月には派閥横断タカ派政策集団である青嵐会結成され青嵐会日中国交正常化反対の立場取って活動した田中内閣日本列島改造論基礎とした、高速道路建設新幹線整備など公共事業費を増額し1973年予算編成した。しかし、同年10月にはオイルショック第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価呼ばれたインフレーション発生して日本経済混乱状態に陥った田中同年11月にはライバル均衡財政志向であった福田蔵相任命して対応に当たらせた。福田予算圧縮金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった1974年昭和49年)には、日本戦後初め経済成長率がマイナスとなった1975年昭和50年)には経済成長率プラスとなったものの、この頃を境に、日本高度経済成長時代から安定成長時代移行していくようになった1974年7月第10回参院選では過半数議席維持したものの、与野党議席数の差がわずかとなり、「保革伯仲伯仲国会)」と呼ばれる時代となった同年12月には田中金脈問題田中総理総裁辞任した田中後継総裁選挙は行われず自由民主党副総裁椎名悦三郎による指名いわゆる椎名裁定)と両院議員総会承認により三木武夫総理総裁就任した三木は党の近代化政治浄化不況克服掲げた1976年昭和51年2月にはロッキード事件発覚した同年6月には党所属河野洋平山口敏夫ら6人の国会議員離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブ結成した同年7月には東京地検特捜部田中角栄逮捕し田中自民党を離党した。総理大臣経験者逮捕党内外に衝撃与えた同年8月には田中受託収賄罪外為法違反容疑起訴された。三木法務大臣稲葉修ロッキード事件解明積極的な立場取った党内反発し三木おろし動き強まった党内動きに対して三木対抗し反発する閣僚罷免して衆議院解散する構え見せた結局任期満了まで解散しなかった。同年12月行われた第34回総選挙自民党結党以来初め過半数割れとなった三木選挙責任取り総理総裁辞任した以降国会与野党伯仲不安定状態続いた。さらに田中離党しながらも党内外から一本釣りをする最大派閥オーナーとしてふるまい続け、のちの政治改革運動自民党の下野つながってゆく。 1976年12月福田赳夫執行部による推挙両院議員総会承認により総理総裁就任したこの際には福田先に総理総裁一期だけ務めた後、大平交代することを示唆した大福密約があったとされる福田内閣当初内閣支持率低かった が、景気回復外交成果上げていくようになったまた、伯仲国会という状況下ではあったが執行部野党一部に対して部分連合呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党1977年昭和52年)に党員党友参加による総裁選導入決めたまた、党友組織自由国民会議結成した。さらに派閥解消唱えられ各派閥は形だけではあるが解散した1978年昭和53年)の自民党総裁予備選挙福田大福密約無視して立候補するも、田中派支持支えられ大平勝利し福田本選進出辞退し大平総理総裁就任した大平1979年昭和54年10月第35回総選挙一般消費税導入公約として掲げた自民党前回衆議院議員総選挙続いて過半数割れとなった党内大平責任追及されたものの大平辞任要求には応じず、選挙後首班の座を巡って福田争い起きて事実上党内分裂状況陥った特別国会での首班指名選挙投票の結果僅差であった大平勝利した同年11月第2次大平内閣発足で一旦、抗争収まったがこの抗争は後に四十日抗争呼ばれた1980年昭和55年5月16日社会党衆議院大平内閣不信任決議案提出した自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議欠席して不信任決議案可決され史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測反したハプニング的な解散であることからハプニング解散呼ばれた総選挙公示され5月30日大平心筋梗塞発作起こして入院し選挙期間中の6月12日急死した6月22日行われた衆参同日選挙結果大平死去したものの自民党勝利となり、衆参ともに過半数議席確保し安定多数得た大平後継総理総裁には大平派鈴木善幸就任し「和の政治」を掲げて党内融和国内融和尽力した

※この「保革伯仲と党内抗争」の解説は、「自由民主党 (日本)」の解説の一部です。
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