総理退陣後
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1976年(昭和51年)2月 - ロッキード事件発生。アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。 7月27日 - ロッキード社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。また全日本空輸とロッキードの販売代理店の丸紅の社長以下数人の社員も逮捕された。なお、総理経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。 8月 - 保釈。 12月 - 第34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。 1982年(昭和57年)11月 - 第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。 1983年(昭和58年)10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。 12月 - 第37回総選挙。11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。 1984年(昭和59年)10月30日 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。 12月 - 田中派内の中堅・若手により、「創政会」の設立準備が進められる。 1985年(昭和60年)2月7日 - 創政会が発足。出席者は40名。 2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。 6月 - 田中事務所が閉鎖。 9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。 10月 - 関越自動車道全通。 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。 1987年(昭和62年)7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。 7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。 10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。 11月 - 竹下内閣が発足。 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。 1990年(平成2年)1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。 2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。 1992年(平成4年)8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。 12月 - 経世会が分裂。 1993年(平成5年)7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の日本新党細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。 12月16日 - 慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には正二位・大勲位菊花大綬章以上に叙されることが慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。
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