対米自主外交とは? わかりやすく解説

対米自主外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:16 UTC 版)

岸信介」の記事における「対米自主外交」の解説

1957年昭和32年1月24日、岸はセイロンスリランカ)で開催予定であったアジア太平洋地域公館長会議東京変更させ、日本外交方針として共産圏対策アジア・アフリカ諸国との友好関係アジア太平洋地域での通商促進三点訓示し、これは9月外交三原則反映された。また「アジア太平洋地域日本外交中心地」と宣言した4月からはイギリス松下正寿特使派遣し核実験禁止アピールし、また国連でも積極的に核実験問題喚起しアメリカイギリス反発買った4月20日にはインドネルー首相が「諸大国原水爆実験行って他国の上空を汚染させる法的権利があるだろうか」と非難し5月9日にはセイロンコロンボ市議会インドネール首相と岸に向かってクリスマス島でのイギリス水爆実験阻止要請した5月20日、岸はアジア歴訪出てインドパキスタンセイロンタイ台湾中華民国)等六カ国を訪問した5月23日にはインドネルー首相核実験禁止問題討議した6月には米国へ渡りアイゼンハワー大統領首脳会談安保改定検討約束させた。6月20日アメリカ議会での演説では国際共産主義脅威唱え翌日記者会見では「日本絶対に共産主義中立主義走らない」と述べた国賓としての訪米であり、アメリカ国内移動には大統領専用機Columbine III)が貸与され厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官制服組トップであるラドフォード統合参謀本部議長との会談厳しいものであった。この席で岸は「秘密保護法についてはいずれ立法措置講じたい思っている」とラドフォード求めに応じている。 9月外務省外交三原則として、「国連中心主義」「アジア一員としての立場堅持」「自由主義諸国との協調」を掲げた疑問批判答えるため翌年外務省は、日本国是は 「自由と正義に基づく平和の確立維持にあり、この国是則って、平和外交推進し国際正義実現し国際社会におけるデモクラシー確立することが、わが国外交根本精神である」として、外交三原則はこの根本精神外交活動現れ方を示すと答弁したまた、岸が携行した外交資料ではアジアナショナリズム理解東南アジア開発基金構想将来中国共産党承認する必要性出てくるため台湾と「2つの中国双方への考慮が必要であること、核実験禁止アピールなどが書かれており、「パワー・ポリティクスとしての国際政治道義要素入れることこそ、我々アジア諸国課せられた使命と書かれていた。岸は内閣改造外務大臣藤山愛一郎抜擢し、「アジア外交なかでも中共問題を」やってもらうと岸は述べた藤山外相9月10日参議院外務委員会で「アメリカ協調するというよりは、日本自由主義陣営立場をとる」と明言した9月28日藤山外相当時自由陣営の中で珍しく中華人民共和国国交持っていたイギリスロイド外相会談し中国問題で密接に連絡取り合うことを約束した10月国連安保理非常任理事国当選した1956年12月国連加盟してからは、核兵器廃絶決議提出して成立イギリス核実験への抗議レバノン紛争ではアメリカ異な決議案出し採決され、米国からも感謝された。またレバノン紛争では翌年1958年国際連合平和維持活動(PKO)を求められたが自衛隊の海外派遣難しかったので拒絶した12月には二度目アジア歴訪出てオーストラリアフィリピンインドネシア周り反日感情の強いオーストラリアでは戦争について率直に謝罪し戦争賠償問題積極的に取り組むとした。12月24日日豪首脳会談で岸は「日豪両国過去忘れ大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ」と訴えたこのようなアジア重視政策背景には、当時欧州共同体体制誕生によって世界経済ブロック化する情勢からも日本東南アジア進出する必要が藤山から要求されたこと、また、バンドン会議でのインド中国躍進周恩来アジア歴訪による影響力拡大への対抗、そしてアメリカに対して日米関係がうまく調整できなければアジアへの回帰」を選択するという、アジアカードとして揺さぶりをかけるという外交上の側面があった。また第二次東南アジア歴訪は、日本の向米一辺倒大東亜共栄圏再来といった懸念に対して英連邦への配慮コロンボ・プラン重視することで乗り切ろうとするものであった1958年昭和33年4月25日衆議院解散した5月22日総選挙勝利し自民党絶対安定多数となる287議席獲得)、6月12日に第57内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣発足した一方で憲法改正必要な3分の2議席獲得には至らなかった。 同年日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、岸は国内反発恐れ、これを拒否した当時岸内閣は、警察官職務執行法警職法)の改正案出したが、社会党総評初めとして反対運動高まり、「デートできない警職法デート邪魔する警職法)」「『オイコラ警官』の再来」などとネガティブ・キャンペーンさらされ撤回追い込まれた。また、日本教職員組合日教組)との政治闘争においては封じ込め策として教職員への勤務評定導入強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。 2月に、警職法改正以外に防諜法(秘密保護法)の成立意欲見せていたほか、防衛庁国防省への昇格内政省の設置地方制による官選知事制度地方長官任命制度)の復活独占禁止法改正小選挙区法などの成立目指していたとされる内政設置法案は、同年に、第1次岸内閣 (改造)により廃案となっている。代わりに1960年昭和35年7月1日に、自治省設立されている。 内政設置関連して検討された「地方制」は、第四次地方制度調査会検討されたもので、従来都道府県廃止して新たにブロック制の「地方」を全国に7~9ヶ所程度設け、そこに官選地方長官キャリア官僚)を配置するというものだった。 このほか、鳩山施政方針演説打ち出して石橋閣議決定していた国民皆保険確立最低賃金制国民皆年金など社会保障制度導入し、後の高度経済成長の礎を構築したまた、鳩山とともに憲法改正主張した

※この「対米自主外交」の解説は、「岸信介」の解説の一部です。
「対米自主外交」を含む「岸信介」の記事については、「岸信介」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「対米自主外交」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「対米自主外交」の関連用語

対米自主外交のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



対米自主外交のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岸信介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS