対米協調路線の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:19 UTC 版)
衆院外務委員長を経て、1950年の第3次吉田内閣第1次改造内閣では内閣官房長官として入閣する。1952年には国務大臣として、米国ラスク国務次官補と交渉の上、駐留軍への施設提供・費用分担を取り決めた日米地位協定を締結した。また。同年より外務大臣となり、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。 外務大臣時代の1953年に、中国残留日本人孤児の日本への引き揚げに関する民間交渉で中国に渡ろうとした高良とみ参議院議員に対し、共産国家への敵視政策から旅券を発行しようとせず、日本国内で大きな問題になった(その後日本の世論に押されて、発行に迫られた)。 これらのように、吉田対米協調路線の忠実な代弁者として、重要な協定の締結にあたってきたが、あまりに熱心過ぎたためか、1954年4月には日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べ、第五福竜丸被爆の悲劇の直後であったために国民の憤激を買った。 吉田退陣後は1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選。1963年の第30回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧神奈川1区から立候補したが落選し、政界を引退する。その後はアラビア石油相談役、国連大使(1961年 - 1963年)などを務めた。 1999年に中公文庫で『戦後二十年の遍歴』<シリーズ戦後史の証言占領と講和6>が刊行された。元版は私家版、シリーズは全8巻。
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