対米諜報員
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1941年(昭和16年)1月に新庄はアメリカ出張を命ぜられた。新庄の任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。いわゆるスパイであるが、4月に到着以後非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。これらの調査結果を参謀本部に報告書として提出するが、渡米から3ヶ月働きづめだった新庄は体調を崩してしまう。1941年10月頃にワシントンにある駐米陸軍武官府に拠点を移すがさらに病状は悪化、11月にワシントン市にあるジョージタウン大学病院に入院する。しかし、12月4日急性肺炎を併発し45歳で没する。
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