対米関係など三木の外交政策とは? わかりやすく解説

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対米関係など三木の外交政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「対米関係など三木の外交政策」の解説

首相となった三木は、1975年昭和50年1月24日行った施政方針演説の中で、日米関係安定日本外交基軸であるとした上でオイルショック後ということもあって中東問題への対処、そして日ソ日中関係課題について触れていた。 三木田中前政権成し遂げた日中国交回復受けて日中平和友好条約早期締結目指したが、日中間の交渉中国側が反覇権について条約盛り込むよう強く求めソ連刺激することを恐れた日本側が難色示したことから難航したその上に三木政権日台間の航空路復活など、日台関係修復動いたことに対して不信感強めた三木中国求める反覇権条項ソ連など特定の国家を指すものとしないことを条件に、反覇権日中平和友好条約盛り込む妥協案を提示するが、中国側納得しなかった。三木粘り強く交渉続けたが、1976年昭和51年)に入ると、中国では周恩来死去鄧小平失脚毛沢東死去政治的に極めて不安定な状況に陥り、一方日本でもロッキード事件の処理に追われるようになって日中とも平和条約交渉どころではなくなり、三木内閣での平和条約締結達成できなかった。 また三木日ソ平和条約締結にも意欲見せたが、こちらも交渉は全く進まず1976年昭和51年)にはソ連ミグ25戦闘機領空侵犯した上、函館空港強行着陸するベレンコ中尉亡命事件発生しベレンコ中尉アメリカ亡命した上に、アメリカ技術協力のもと、ミグ25解体調査の上ソ連引き渡したことにより、三木政権下での日ソ関係悪化した自民党内では左派とされていた三木であったが、三木政権下では日中日ソ関係大きな進展見られず、逆に日米日韓日台の関係強化図られた。三木3月外相宮沢喜一訪米させた。まず宮沢アメリカ側日米安全保障に関して日米安保条約堅持日本核攻撃を受ける事態陥った場合アメリカ抑止力となること、日本攻撃受けた際にはアメリカ日米安保条約取り決め重視することと、日本側も日米安保条約における約束を果たすことを確認した。なお日本核攻撃受けた場合アメリカ抑止力となることの確認は、核拡散防止条約批准問題係わっていた。三木核拡散防止条約への早期批准意向示していたが、核保有国アメリカソ連イギリスフランス中国の5カ国に限定しそれ以外の国の核保有禁じるという既存核保有国一種特権認め不平等性を問題視し批准反対する意見もあった。核攻撃時のアメリカ支援確認することで、核拡散防止条約批准して保有放棄して日本の安全保障確保できることを確認し核拡散防止条約三木政権下で批准漕ぎつけた。 宮沢日米安全保障問題の他に、崩壊態となっていた南ベトナムなどのベトナム情勢、そして中東情勢について意見交換した。そして8月上旬三木首相アメリカ訪問することを決定するとともに秋に予定されていた天皇皇后訪米に関して天皇皇后からフォード大統領にお会いするのを楽しみにしている旨のメッセージ伝えた宮沢外相訪問時、崩壊寸前であった南ベトナムその後まもなく崩壊したインドシナ情勢変化受けてアメリカ金大中事件影響もあって冷え込んでいた日韓関係修復望みそのような中で日韓関係修復図られるようになった5月には韓国金鍾泌首相来日し宮沢外相、そして三木首相会見した。そして7月には宮沢外相訪韓して朴正煕大統領らと会談した。そして日韓関係懸案事項であった金大中事件政治決着図られ先述のように9月には日韓定期閣僚会議再開された。 1975年昭和50年6月フランスジスカールデスタン大統領は、先進国首脳一堂会して懸案事項話し合う、先進国首脳会議開催呼びかけた。この呼びかけ当時駐仏大使北原秀雄は、先進国首脳会議への日本の参加強く訴え情報収集フランス側との折衝尽力した北原三木に対して日本先進国首脳会議出席する意義強く訴え北原説得三木日本にとって画期的なことであるとして積極的な参加意志示した。しかし当初アメリカヨーロッパ諸国から糾弾を受ける場となるとして参加消極であった三木先進国首脳会議アメリカ参加すべきである考え8月予定され日米首脳会談の席でアメリカ参加呼びかけを行うことにした。 三木1975年昭和50年8月2日アメリカ向かった三木8月5日フォードとの第一回日米首脳会談に臨むことになるが、会談冒頭訪米最中日本赤軍マレーシアクアラルンプールにあるアメリカ大使館スウェーデン大使館襲撃し大使館員を人質に取るクアラルンプール事件発生した三木人質人命と安全を最優先とし、大使館襲撃犯要求である服役、または拘置であった日本赤軍活動家釈放を、超法規的措置として認めたことを説明した第一回会談では、ヨーロッパ安全保障中ソ対立東南アジア問題話し合われた。三木ヨーロッパ関連の話題基本的にアメリカ側見解を伺う姿勢見せたが、アジア関連の話題ではアジア諸国日米協調して支援していくことを提案し良好な日米関係日本外交基礎であることを三木日米首脳会談の席で明確にした。 第一回会談が行われた日の夕方三木要望によると思われる第二回日米首脳会談急遽行われた。この会談三木フォード通訳同行しただけの事実上差し会談となり、日本の外務省事前に知らされず、日本側の通訳外務省職員ではなく三木側近であった國弘正雄務めた。この会談協議内容これまでのところ國弘が明らかにていないため、アメリカ側資料によれば、まず日本の政治情勢について意見交換が行われた。三木はまず現状日本の政治情勢では自民党のみが政権担当能力があることを指摘した上でこのところ国政選挙での得票率下がってきているため、自民党政策リベラルなものに転換していく必要性強調した日本の政治情勢についての意見交換終わった段階で、三木フォードフランスジスカールデスタン大統領提唱した先進国首脳会談へのアメリカ参加働きかけた。フォード会談開催前参加各国間での意見すり合わせの場が必要であるとの認識示したが、明言避けたものの参加意向示した。 翌6日行われた第三回会談では、まず前日夕方話し合われサミットへの参加問題確認なされたフォード改め参加する方針伝え三木にとってアメリカサミット参加方針であることを確認できたことは収穫であった3回目会談主な議題となったのは朝鮮半島情勢中東情勢であった朝鮮半島情勢では韓国安全保障日本の安全保障大きな影響持っている認識していた三木は、政権発足当初から韓国との関係改善動いており、アメリカ側としても日韓の関係改善歓迎する意向示した。また中東情勢では三木中東和平に関してアメリカ協力する表明し一方フォードからは日本エジプトに対して援助を行うよう要請した財政難理由援助大幅増額に難色を示す日本側に対しアメリカ側前年田中首相との日米首脳会談の席で、日本南ベトナムへの援助を行うよう要請していたが、その南ベトナムに行う予定であった援助エジプト振り向けるように強く要望した。これはアメリカ都合日本の援助先を変更させようしたものであったが、三木はこの件に関してアメリカ側反発見せことはなかった。 1975年昭和50年8月日米首脳会談では、三木日本外交基軸とする日米友好関係再確認された。一方日米協力とはいってもエジプトへの援助問題から見えるように、アメリカ側要求日本受け入れるという意味合い強かった。しかし三木日米首脳会談主要目的一つとしたアメリカサミット参加問題については、アメリカ参加意向確認することができた。また三木同じく議会での政治経歴長いフォードとの個人的な繋がり深められた点も収穫であった。特に三木フォードとの親密な関係は、翌年ロッキード事件の際に三木フォード対し事件に関する資料の提供を要請する親書を送ることにつながった考えられる1975年昭和50年11月フランスパリ郊外にあるランブイエで初の先進国首脳会議開かれた会議主たる議題オイルショック後世界経済立て直しと、当時緊張高まりつつあったソ連東欧などの東西問題であったサミット参加した三木強く訴えたのは南北問題であったが、他の首脳関心は必ずしも高くはなかった。三木各国首脳粘り強く働きかけ共同声明中に南北問題について入れることに成功した

※この「対米関係など三木の外交政策」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「対米関係など三木の外交政策」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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