対米関係など三木の外交政策
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「三木武夫」の記事における「対米関係など三木の外交政策」の解説
首相となった三木は、1975年(昭和50年)1月24日に行った施政方針演説の中で、日米関係の安定が日本外交の基軸であるとした上で、オイルショック後ということもあって中東問題への対処、そして日ソ、日中関係の課題について触れていた。 三木は田中前政権が成し遂げた日中国交回復を受けて、日中平和友好条約の早期締結を目指したが、日中間の交渉は中国側が反覇権について条約に盛り込むよう強く求め、ソ連を刺激することを恐れた日本側が難色を示したことから難航した。その上に三木政権が日台間の航空路復活など、日台関係の修復に動いたことに対しても不信感を強めた。三木は中国の求める反覇権条項はソ連など特定の国家を指すものとしないことを条件に、反覇権を日中平和友好条約に盛り込む妥協案を提示するが、中国側は納得しなかった。三木は粘り強く交渉を続けたが、1976年(昭和51年)に入ると、中国では周恩来の死去、鄧小平の失脚、毛沢東の死去と政治的に極めて不安定な状況に陥り、一方日本でもロッキード事件の処理に追われるようになって日中とも平和条約交渉どころではなくなり、三木内閣での平和条約締結は達成できなかった。 また三木は日ソ平和条約の締結にも意欲を見せたが、こちらも交渉は全く進まず、1976年(昭和51年)にはソ連のミグ25戦闘機が領空侵犯した上、函館空港に強行着陸するベレンコ中尉亡命事件が発生し、ベレンコ中尉はアメリカに亡命した上に、アメリカの技術協力のもと、ミグ25を解体調査の上でソ連に引き渡したことにより、三木政権下での日ソ関係は悪化した。 自民党内では左派とされていた三木であったが、三木政権下では日中、日ソ関係に大きな進展は見られず、逆に日米、日韓、日台の関係強化が図られた。三木は3月に外相の宮沢喜一を訪米させた。まず宮沢はアメリカ側と日米の安全保障に関して、日米安保条約の堅持、日本が核攻撃を受ける事態に陥った場合、アメリカの核が抑止力となること、日本が攻撃を受けた際にはアメリカが日米安保条約の取り決めを重視することと、日本側も日米安保条約における約束を果たすことを確認した。なお日本が核攻撃を受けた場合、アメリカの核が抑止力となることの確認は、核拡散防止条約の批准問題が係わっていた。三木は核拡散防止条約への早期批准の意向を示していたが、核保有国をアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5カ国に限定し、それ以外の国の核保有を禁じるという既存核保有国に一種の特権を認める不平等性を問題視し、批准に反対する意見もあった。核攻撃時のアメリカの支援を確認することで、核拡散防止条約を批准して核の保有を放棄しても日本の安全保障が確保できることを確認し、核拡散防止条約は三木政権下で批准に漕ぎつけた。 宮沢は日米の安全保障問題の他に、崩壊状態となっていた南ベトナムなどのベトナム情勢、そして中東情勢について意見を交換した。そして8月上旬に三木首相がアメリカを訪問することを決定するとともに、秋に予定されていた天皇皇后の訪米に関して、天皇皇后からフォード大統領にお会いするのを楽しみにしている旨のメッセージを伝えた。 宮沢外相の訪問時、崩壊寸前であった南ベトナムはその後まもなく崩壊した。インドシナ情勢の変化を受けて、アメリカは金大中事件の影響もあって冷え込んでいた日韓関係の修復を望み、そのような中で日韓関係の修復が図られるようになった。5月には韓国の金鍾泌首相が来日し、宮沢外相、そして三木首相と会見した。そして7月には宮沢外相が訪韓して朴正煕大統領らと会談した。そして日韓関係の懸案事項であった金大中事件の政治決着が図られ、先述のように9月には日韓定期閣僚会議が再開された。 1975年(昭和50年)6月、フランスのジスカールデスタン大統領は、先進国の首脳が一堂に会して懸案事項を話し合う、先進国首脳会議の開催を呼びかけた。この呼びかけに当時の駐仏大使の北原秀雄は、先進国首脳会議への日本の参加を強く訴え、情報収集とフランス側との折衝に尽力した。北原は三木に対しても日本が先進国の首脳会議に出席する意義を強く訴え、北原の説得に三木も日本にとって画期的なことであるとして積極的な参加の意志を示した。しかし当初アメリカはヨーロッパ諸国から糾弾を受ける場となるとして参加に消極的であった。三木は先進国首脳会議にアメリカが参加すべきであると考え、8月に予定された日米首脳会談の席でアメリカに参加呼びかけを行うことにした。 三木は1975年(昭和50年)8月2日、アメリカに向かった。三木は8月5日にフォードとの第一回日米首脳会談に臨むことになるが、会談冒頭、訪米最中に日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールにあるアメリカ大使館とスウェーデン大使館を襲撃し、大使館員を人質に取るクアラルンプール事件が発生した。三木は人質の人命と安全を最優先とし、大使館襲撃犯の要求である服役、または拘置中であった日本赤軍活動家の釈放を、超法規的措置として認めたことを説明した。 第一回会談では、ヨーロッパの安全保障、中ソ対立、東南アジア問題が話し合われた。三木はヨーロッパ関連の話題は基本的にアメリカ側の見解を伺う姿勢を見せたが、アジア関連の話題ではアジア諸国を日米が協調して支援していくことを提案し、良好な日米関係が日本外交の基礎であることを三木は日米首脳会談の席で明確にした。 第一回会談が行われた日の夕方、三木の要望によると思われる第二回日米首脳会談が急遽行われた。この会談は三木とフォードが通訳を同行しただけの事実上差しの会談となり、日本の外務省も事前に知らされず、日本側の通訳も外務省職員ではなく、三木の側近であった國弘正雄が務めた。この会談の協議内容はこれまでのところ國弘が明らかにしていないため、アメリカ側の資料によれば、まず日本の政治情勢について意見交換が行われた。三木はまず現状の日本の政治情勢では自民党のみが政権担当能力があることを指摘した上で、このところの国政選挙での得票率が下がってきているため、自民党の政策をリベラルなものに転換していく必要性を強調した。日本の政治情勢についての意見交換が終わった段階で、三木はフォードにフランスのジスカールデスタン大統領が提唱した先進国首脳会談へのアメリカの参加を働きかけた。フォードは会談開催前に参加各国間での意見のすり合わせの場が必要であるとの認識を示したが、明言は避けたものの参加の意向を示した。 翌6日に行われた第三回会談では、まず前日夕方に話し合われたサミットへの参加問題の確認がなされた。フォードは改めて参加する方針を伝え、三木にとってアメリカがサミット参加の方針であることを確認できたことは収穫であった。3回目の会談で主な議題となったのは朝鮮半島情勢と中東情勢であった。朝鮮半島情勢では韓国の安全保障が日本の安全保障に大きな影響を持っていると認識していた三木は、政権発足当初から韓国との関係改善に動いており、アメリカ側としても日韓の関係改善を歓迎する意向を示した。また中東情勢では三木が中東和平に関してアメリカに協力する旨表明し、一方フォードからは日本がエジプトに対して援助を行うよう要請した。財政難を理由に援助の大幅増額に難色を示す日本側に対し、アメリカ側は前年の田中首相との日米首脳会談の席で、日本が南ベトナムへの援助を行うよう要請していたが、その南ベトナムに行う予定であった援助をエジプトに振り向けるように強く要望した。これはアメリカの都合で日本の援助先を変更させようとしたものであったが、三木はこの件に関してアメリカ側に反発を見せることはなかった。 1975年(昭和50年)8月の日米首脳会談では、三木が日本外交の基軸とする日米友好関係が再確認された。一方日米協力とはいってもエジプトへの援助問題から見えるように、アメリカ側の要求を日本が受け入れるという意味合いも強かった。しかし三木が日米首脳会談の主要目的の一つとしたアメリカのサミット参加問題については、アメリカの参加意向を確認することができた。また三木と同じく議会での政治経歴が長いフォードとの個人的な繋がりを深められた点も収穫であった。特に三木とフォードとの親密な関係は、翌年のロッキード事件の際に三木がフォードに対し、事件に関する資料の提供を要請する親書を送ることにつながったと考えられる。 1975年(昭和50年)11月、フランスのパリ郊外にあるランブイエで初の先進国首脳会議が開かれた。会議の主たる議題はオイルショック後の世界経済の立て直しと、当時緊張が高まりつつあったソ連・東欧などの東西問題であった。サミットに参加した三木が強く訴えたのは南北問題であったが、他の首脳の関心は必ずしも高くはなかった。三木は各国首脳に粘り強く働きかけ、共同声明の中に南北問題について入れることに成功した。
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