ニクソン政権とは? わかりやすく解説

ニクソン政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:25 UTC 版)

ヘンリー・キッシンジャー」の記事における「ニクソン政権」の解説

1960年大統領選挙では共和党大統領候補指名予備選立候補したネルソン・ロックフェラー外交政策顧問務め1964年1968年大統領選でも予備選出馬したネルソン支援するなどロックフェラー家との交流深く、後に3代目当主デイヴィッド・ロックフェラー銀行中国進出決めた際にキッシンジャーから助言受けている。しかしロックフェラー敗北後1968年大統領選挙当選したリチャード・ニクソンから直々スカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢入りニクソン外交取り仕切るキッシンジャー大統領補佐官指名は、国務長官国防長官指名前になされた。ここにニクソンキッシンジャーへの期待読み取る論者少なくないジョンソン政権までの外交政策は、国務長官決定権握り国家安全保障担当補佐官調整役とされてきた。しかしニクソンキッシンジャー国家安全保障会議NSC)が外交政策決定権を握るべきだと考えていた(キッシンジャー1968年発表した官僚政策立案」と題する論文で、アメリカ外交機能強化のためジョンソン政権下でほとんど有名無実存在化していたNSC活用提案している)。ニクソンの命を受けたキッシンジャーNSCスタッフ特別補佐官)に若手外交官、軍将校国際政治学者スカウトし組織したキッシンジャーからNSC特別補佐官にスカウトされ人物には、アンソニー・レイクローレンス・イーグルバーガーアレクサンダー・ヘイグブレント・スコウクロフトなどがいる。 キッシンジャーは、国務省などと激し権力闘争行い、ニクソン政権ではNSC外交政策決定権独占することとなる。特にウィリアム・P・ロジャーズ国務長官重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、NSC特別補佐官のほかに大使駐在武官CIA支局長などをNSCの手足として用いていた。 後述する1971年極秘訪中の際も、キッシンジャーロジャース国務長官国務省一切知らせずに、フランスルーマニアパキスタンなどに勤務している駐在武官CIA支局長を利用して秘密裏北京到着した北京では、中華人民共和国側の英語通訳依存して交渉が行われた。 冷戦政策再構築意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャー重要な役割果たした1971年にはニクソンの「密使」として、当時中ソ対立ソ連緊張状態にあった中華人民共和国極秘二度訪問周恩来中国首相直接会談行い米中和解への道筋をつける。一方でこの中華人共和国との和解交渉カードとして、ベトナム戦争終結向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策推進したまた、同時期の第三次印パ戦争ではソ連影響力抑えるためにニクソン訪中仲介国でもあったパキスタン中国とともに支援した1973年には毛沢東中国共産党主席キッシンジャーとの会談米国日本中国パキスタンイラントルコ欧州によるソ連包囲網の構築提案したこのような大国間関係の動き連動してニクソンキッシンジャー1960年代から1970年代初頭アメリカにとって最大外交問題であったベトナム戦争終結にも成果納めたアメリカが中ソと関係改善行いその結果ベトナム戦争において中ソ両国支援受けてアメリカ対峙していた北ベトナム外交的に孤立させ、同時に大規模な北爆再開機雷封鎖などで軍事的に追い込みアメリカジョンソン政権時代1968年5月よりパリ暗礁に乗り上げてきた和平交渉妥結成功したニクソン訪中から3か月後に行われたこの北爆再開海上封鎖中国了解得たベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長務めたホアン・トゥンは証言している。1973年にはパリ協定調印されベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった。これを功績としてアメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーノーベル平和賞受賞するまた、第四次中東戦争後は積極的に中東地域訪れてアラブイスラエル調停を行う「シャトル外交英語版)」を展開し1974年にはアラブ諸国盟主イスラエル敵国だったエジプトアンワル・サダト政権ソ連から引き離して親米化させて軍事援助および経済援助与えサウジアラビアファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相内相会談し原油ドル建て決済安定的に供給するサウジ米国安全保障提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラー確立させてドル防衛成功したアフリカでのソ連影響力排除目的エジプトサウジアラビアなどが結成した反共同盟サファリ・クラブ(英語版)も支援した

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ニクソン政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 17:49 UTC 版)

日米繊維交渉」の記事における「ニクソン政権」の解説

1968年米国大統領選挙戦中8月11日リチャード・ニクソン候補が「毛・化学繊維にも国際的取り決め導入する」とする繊維規制公約し選挙勝利大統領就任する。翌1969年5月、モーリス・ヒューバート・スタンズ(英語版商務長官訪日し日本による繊維製品輸出自主規制要請。これを愛知揆一外務大臣拒否すると、ウィルバー・ミルズ(英語版下院歳入委員長が「日本自主規制応じなければ議会繊維輸入割当法制化する」との声明発表する

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ニクソン政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/03 22:00 UTC 版)

ロバート・ハチソン・フィンチ」の記事における「ニクソン政権」の解説

1968年フィンチ大統領選挙立候補したリチャード・ニクソン支持しニクソンの上顧問となった選挙の結果ニクソン民主党ヒューバート・ハンフリー僅差下したニクソン当初フィンチ副大統領候補として選挙に臨むつもりでいた。だがフィンチニクソン要請辞退した。そのためニクソンは、副大統領候補としてメリーランド州知事スピロ・アグニュー起用した。かつてニクソンカリフォルニア州から連邦議員選出されたことがあったが、大統領選挙当時ニューヨーク州居住していた。そのため、仮にカリフォルニア州居住していたフィンチ副大統領候補となっていた場合でも、カリフォルニア州選挙人フィンチ投票することができた(アメリカ合衆国憲法修正第12条)。 大統領選挙後、ニクソンフィンチに対して新政権での閣僚ポスト選択権与えたフィンチは健康と教育問題について関心抱き続けていたため、保健教育福祉長官ポスト選択したフィンチ社会問題について、ニクソンよりも穏健主義であった。だが政治的思想違いは特に問題とならなかった。 1969年ニクソン大統領就任すると、フィンチ保健教育福祉長官として新政権加わった1970年フィンチ保健教育福祉長官退きホワイトハウススタッフ転任したフィンチ1973年まで国内問題担当大統領顧問務め閣僚級ポスト維持し続けた

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