ニクソン政権
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「ヘンリー・キッシンジャー」の記事における「ニクソン政権」の解説
1960年の大統領選挙では共和党の大統領候補指名予備選に立候補したネルソン・ロックフェラーの外交政策顧問を務め、1964年と1968年の大統領選でも予備選に出馬したネルソンを支援するなどロックフェラー家との交流が深く、後に3代目の当主デイヴィッド・ロックフェラーは銀行の中国進出を決めた際にキッシンジャーから助言を受けている。しかしロックフェラーの敗北後、1968年の大統領選挙で当選したリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る。キッシンジャーの大統領補佐官指名は、国務長官、国防長官の指名の前になされた。ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。 ジョンソン政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障担当補佐官は調整役とされてきた。しかしニクソンとキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えていた(キッシンジャーは1968年に発表した「官僚と政策立案」と題する論文で、アメリカ外交の機能強化のためジョンソン政権下でほとんど有名無実の存在と化していたNSCの活用を提案している)。ニクソンの命を受けたキッシンジャーはNSCのスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトして組織した。キッシンジャーからNSC特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイク、ローレンス・イーグルバーガー、アレクサンダー・ヘイグ、ブレント・スコウクロフトなどがいる。 キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権ではNSCが外交政策の決定権を独占することとなる。特にウィリアム・P・ロジャーズ国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、NSC特別補佐官のほかに大使、駐在武官、CIA支局長などをNSCの手足として用いていた。 後述する1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、フランス、ルーマニア、パキスタンなどに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着した。北京では、中華人民共和国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。 冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な役割を果たした。1971年にはニクソンの「密使」として、当時中ソ対立でソ連と緊張状態にあった中華人民共和国を極秘に二度訪問。周恩来中国首相と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。また、同時期の第三次印パ戦争ではソ連の影響力を抑えるためにニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。1973年には毛沢東中国共産党主席はキッシンジャーとの会談で米国、日本、中国、パキスタン、イラン、トルコ、欧州によるソ連包囲網の構築を提案した。 このような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーは1960年代から1970年代初頭のアメリカにとって最大の外交問題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。アメリカが中ソと関係改善を行い、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを外交的に孤立させ、同時に大規模な北爆の再開や機雷封鎖などで軍事的にも追い込み、アメリカはジョンソン政権時代の1968年5月よりパリで暗礁に乗り上げてきた和平交渉妥結に成功した。ニクソンの訪中から3か月後に行われたこの北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは証言している。1973年にはパリ協定が調印され、ベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった。これを功績としてアメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞する。 また、第四次中東戦争後は積極的に中東地域を訪れてアラブとイスラエルの調停を行う「シャトル外交(英語版)」を展開し、1974年にはアラブ諸国の盟主でイスラエルの敵国だったエジプトのアンワル・サダト政権をソ連から引き離して親米化させて軍事援助および経済援助を与え、サウジアラビアのファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相兼内相と会談して原油をドル建て決済で安定的に供給するサウジに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立させてドル防衛に成功した。アフリカでのソ連の影響力排除を目的にエジプトとサウジアラビアなどが結成した反共同盟サファリ・クラブ(英語版)も支援した。
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ニクソン政権
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1968年の米国大統領選挙戦中の8月11日、リチャード・ニクソン候補が「毛・化学繊維にも国際的取り決めを導入する」とする繊維規制を公約し選挙に勝利、大統領に就任する。翌1969年5月、モーリス・ヒューバート・スタンズ(英語版)商務長官が訪日し、日本による繊維製品輸出の自主規制を要請。これを愛知揆一外務大臣が拒否すると、ウィルバー・ミルズ(英語版)下院歳入委員長が「日本が自主規制に応じなければ、議会は繊維の輸入割当を法制化する」との声明を発表する。
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ニクソン政権
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「ロバート・ハチソン・フィンチ」の記事における「ニクソン政権」の解説
1968年、フィンチは大統領選挙に立候補したリチャード・ニクソンを支持し、ニクソンの上級顧問となった。選挙の結果、ニクソンは民主党ヒューバート・ハンフリーを僅差で下した。 ニクソンは当初、フィンチを副大統領候補として選挙に臨むつもりでいた。だがフィンチはニクソンの要請を辞退した。そのためニクソンは、副大統領候補としてメリーランド州知事スピロ・アグニューを起用した。かつてニクソンはカリフォルニア州から連邦議員に選出されたことがあったが、大統領選挙当時はニューヨーク州に居住していた。そのため、仮にカリフォルニア州に居住していたフィンチが副大統領候補となっていた場合でも、カリフォルニア州の選挙人はフィンチに投票することができた(アメリカ合衆国憲法修正第12条)。 大統領選挙後、ニクソンはフィンチに対して新政権での閣僚ポストの選択権を与えた。フィンチは健康と教育の問題について関心を抱き続けていたため、保健教育福祉長官のポストを選択した。フィンチは社会問題について、ニクソンよりも穏健主義であった。だが政治的思想の違いは特に問題とならなかった。 1969年にニクソンが大統領に就任すると、フィンチは保健教育福祉長官として新政権に加わった。1970年、フィンチは保健教育福祉長官を退き、ホワイトハウスのスタッフに転任した。フィンチは1973年まで国内問題担当の大統領顧問を務め、閣僚級のポストを維持し続けた。
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