ジョンソン政権 (2019年–現在)
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「ジェイコブ・リース=モグ」の記事における「ジョンソン政権 (2019年–現在)」の解説
リース=モグは、テリーザ・メイの辞意表明後、ボリス・ジョンソンの保守党党首就任を支援した。2019年7月23日にジョンソンが党首に選出され、翌日に首相に就任した事を受けて、リース=モグはメル・ストライド(英語版)に代わって庶民院院内総務に就任した。また、彼はジョンソン政権で枢密院議長になり、閣議に出席するようになった。リース=モグが政府の役職に就くのも、イギリスの内閣入りするのも、いずれも初めての事である。 2019年9月、リース=モグは政府のオペレーション・イエローハンマー(英語版)レポート作成に関与した神経学者のデイヴィッド・ニコルを反ワクチン主義者のアンドリュー・ウェイクフィールドと比較した後に謝罪した。リース=モグは、新型コロナワクチンを支持しており、反ワクチン主義者を「変わり者」と呼んでいる。 2019年イギリス総選挙中、リース=モグはLBCのニック・フェラーリ(英語版)とのインタビューの中で、グレンフェル・タワー火災の際、住民はロンドン消防隊の指示を無視して逃げる事が「常識」であったと発言し、批判された。発言の数時間後、リース=モグは自らの発言について「深く陳謝する」と述べた。 その後、リース=モグは、(最終的に保守党が勝利するまでの)選挙戦の残りの期間中、メディアへの登場回数を減らし、メディアでは、フェラーリのインタビューにより党がダメージを受ける事を恐れた結果、露出を控えるようダウニング街から命じられたのではないかという憶測を呼んだ。選挙戦の後半、フェラーリは、ボリス・ジョンソンとのインタビューの中で、「モギーはどこだ? [...] どこにもいないじゃないか」と尋ねた。ジョンソンは、リース=モグが各地で活発に選挙キャンペーンを行っていると答えた。 2020年、ユニセフが70年の歴史の中で初めて、クリスマス前にロンドンの貧困地域の子どもたちに食料小包を提供することを発表したが、リース=モグはこれをユニセフの政治的な演出だと非難し、ユニセフが「世界で最も貧しい国、最も恵まれない国、人々が飢えている国、内戦が起きている国の人々の世話をすべき時に、政治的な行為をしている」と述べた。リース=モグは労働党のニール・コイル(英語版)議員から「スクルージ(英語版)」(ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」の主人公)の烙印を押された。 リース=モグはコメントの中で、慈善団体は「イングランドではびこっている」「ユニセフは自らを恥じるべきだ」と述べた。 2021年、リース=モグは、ラテン語ミサ(英語版)に参加するため、第3階層のウェスト・ハープツリーにある自宅から第4階層のグラストンベリーにある教会までの15マイルを移動し、政府の新型コロナウイルス規制を破った。政府の方針では、第4階層での礼拝は可能だが、階層間の移動は許可されていなかった。リース=モグのスポークスマンは、彼が「クリフトン教区で唯一行われている昔からの形のミサに定期的に出席しており、それによって彼の宗教的義務を果たしている」と述べた。
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ジョンソン政権
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「ニコラス・カッツェンバック」の記事における「ジョンソン政権」の解説
1963年11月22日のケネディ暗殺から2日後の11月24日にJ・エドガー・フーヴァーFBI長官がカッツェンバックを訪れ、オズワルドが暗殺事件の犯人であると断定したと伝えた。暗殺事件の3日後、カッツェンバックはジョンソン大統領の特別顧問ウィリアム・D・モイヤーにメモを送っている。その中で彼は次のように述べている。 「大衆に、オズワルドが暗殺者であること、まだ捕まっていない彼の共犯者はいないこと、彼は(もし彼が逮捕後にジャック・ルビーに射殺されていなかったとしても)裁判で有罪を宣告されていただろうことを納得させなければならない。オズワルドの動機に関する推測は断ち切らねばならない。(中略)残念ながらオズワルドにまつわる事実は(彼が暗殺者であるとするには)あまりにも適切であり、あまりにも明らかである。(マルキシスト、キューバ、ロシア人の妻など)(中略)我々には好ましくない形の大衆の噂や議会の公聴会を阻止する材料が必要である。」 また、フーヴァーはジョンソンの側近に次のようなメモを送っている。このメモは上院チャーチ委員会によって明らかにされ[要出典]、同委員会報告書33ページで確認されている。 「オズワルドが真の暗殺者であるということを大衆に納得させるため、何らかの発表をせねばならないと私は考える。カッツェンバック氏も同様の考えである。」 これらのメモは政府が暗殺事件の真相隠蔽を画策していたことを最もよく示す公的文書となっている。カッツェンバックとフーヴァーはウォレン委員会の設立に主要な働きをした。 1964年3月にロバート・F・ケネディが司法長官を辞任すると、カッツェンバックは司法長官代行となり、1965年から正式に司法長官となった。彼はトンキン湾決議によりジョンソン大統領には米軍をヴェトナムに派遣する権利があると主張し、ベトナム戦争のエスカレーションに積極的な役割を果たした。後に彼は交渉による戦争の解決を主張した。 1966年、カッツェンバックは国務次官となった。1968年1月にプエブロ号事件が起こると、彼は国務次官として北朝鮮との交渉にあたった。ベトナム戦争の戦線拡大を阻止するため、軍事行動ではなく外交による解決を目指して粘り強く交渉を続けたが、北朝鮮側の強硬姿勢のため難航した。結局アメリカの諜報活動を認める屈辱的な謝罪文に署名することでようやく人質を解放することに成功した。1969年、彼は国防次官を辞任し民間に戻った。
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