大統領選出馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:23 UTC 版)
「サルバドール・アジェンデ」の記事における「大統領選出馬」の解説
アジェンデが初めて大統領選に出馬したのは、1952年のこと、社共連合の統一候補としてであった。だが当時は左派弾圧の記憶が生々しく残っていたこともあり、アジェンデは得票率5.6%で惨敗を喫した。 そして1956年、社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」(FRAP)が結成されると、その統一候補として1958年と1964年の大統領選に出馬した。 1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、ホルヘ・アレッサンドリ(独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はアジェンデを脅威と見なし、1964年の大統領選に向け、アジェンデの対立候補(キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ)に大々的な秘密支援を提供するという謀略に着手した。最終的に、1964年の選挙戦でフレイ陣営が費やした資金の半分以上を、ケネディ政権およびジョンソン政権下のCIAが負担するという結果になった。一方のソビエト連邦は、キューバ危機以降は「ラテンアメリカは米国の所有物」との考えを非公式に受け入れていたため、チリの選挙には干渉しなかった。 1964年の選挙ではアジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していた対立候補のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが、右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。だが、アジェンデの敗北の最大の要因は何と言ってもケネディ政権およびジョンソン政権による対チリ選挙干渉だった。フレイ陣営は、1964年の選挙戦で費やした資金の半分以上をCIAから受け取っていた。CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダも大々的に展開した。チリを「進歩のための同盟」のモデル国家にしようと目論んだのもジョンソン政権である。とりわけ、CIAが秘密裏に注入した資金援助が効果を発揮した。1958年の大統領選でフレイが獲得した票は20.7%、1961年の国会議員選挙でキリスト教民主党が獲得した票は15%、そして同年から莫大な秘密資金が米国からキリスト教民主党フレイ派に流入し始めると、1963年の地方選挙で同党はチリ最大の野党に躍進し、1964年の大統領選でフレイは57%という票を獲得するに至った。 とはいえ、チリ国内の反共主義勢力や、それを後押しするCIAによる執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、チリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダー(英語版)は憲法に則った解決を主張した。
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大統領選出馬
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「ユーリヤ・ティモシェンコ」の記事における「大統領選出馬」の解説
2010年の大統領選挙に立候補し、干支に因んだ白虎を陣営のシンボルとして選挙活動を行った。1月17日に行こなわれた第1回投票の結果約25%の得票率で2位となり、2月7日の決選投票に臨んだが、ヤヌコーヴィチを上回る票は得られなかった。すると14日にティモシェンコは選挙で不正が行われたと主張、法廷闘争に持ち込む意向を表明し、16日にはウクライナ最高行政裁判所に提訴した。しかし20日になって「提出した(不正選挙の)証拠が形式的にしか審理されないのでは、法廷闘争を続ける意味がない」として結局訴えを取り下げた。 その後も首相の任には留まり辞任を拒否していたが、3月3日に首相不信任決議案が議会で可決されるに至って総辞職を余儀なくされ、ここにティモシェンコは事実上失脚した。
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