第1回投票
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「1976年イギリス労働党党首選挙」の記事における「第1回投票」の解説
第1回投票:1976年3月25日候補者得票数得票率マイケル・フット90 28.7% ジェームズ・キャラハン84 26.8% ロイ・ジェンキンス56 17.8% トニー・ベン37 11.8% デニス・ヒーリー30 9.6% アンソニー・クロスランド17 5.3% 得票差 6 1.9% 有効投票数 314 第2回投票へ 第1回投票の結果、ジェンキンス、ベン、クロスランドが撤退した。
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第1回投票
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「2008年ジンバブエ大統領選挙」の記事における「第1回投票」の解説
投票は3月29日に行われ、即日開票された。また、同時に上院・下院選挙と地方議会選挙の投票も行われた。 野党・民主変革運動(MDC)は3月30日に独自集計の結果をもとに、勝利を宣言した。4月2日には、ツァンギライが50.3%、ムガベ43.8%を獲得したとして改めて勝利宣言した。しかし、即日開票にもかかわらず選管からの投票結果の発表はなかなか出ず、4月4日には与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)の幹部会議にて決選投票に臨む方針を示した。さらに、ZANU-PFは選挙結果が出ないうちに、票の再集計を指示。MDC側はZANU-PFが票を不正操作していると指摘した。 投票結果の発表が遅れる間に、与党支持者や退役軍人などによる野党支持者に対する暴力行為が横行。政権もこれに大きく関与したとされ、ムガベの票を過少集計したとして選挙管理委員5人が逮捕された。また、4月3日夜、許可なく取材活動を行ったとして、「ニューヨーク・タイムズ」の記者とイギリスのフリージャーナリストが警察に拘束された。 MDCは投票結果の即時公表を求めて裁判所に提訴したが、4月14日、ジンバブエの高等裁判所は訴えを退けた。この判決を受けてMDCはゼネストを行ったが、不調に終わり、16日に警察はゼネストを計画した野党支持者56人を「公務執行妨害」で拘束した。 4月25日には、警察当局がMDCの本部と独立系選挙監視団のジンバブエ選挙サポートネットワーク(ZESN)の事務所を捜索した。この捜索では、MDC支持者の数十人が拘束され、ZESNでは書類が押収されたという。 一方、下院選挙(定数210)ではZANU-PFは97議席で過半数を割り、MDCが主流派・分派とあわせて109議席を獲得した。ZANU-PFは、野党の23議席について再集計を要求したが、集計結果は変わらず、独立以来初の与党敗北が確定した。上院では、与野党がそれぞれ30議席を獲得した。 選挙結果は5月2日に発表され、ツァンギライが全得票の47.9%、ムガベは43.2%を獲得した。この結果、過半数の票を獲得した候補者がいなかったとして、選挙規定により決選投票が行われることとなった。選挙規定では決選投票は、1回目の投票から21日以内に行われることになっているが、5月17日、選挙管理委員会は6月28日に決選投票を実施すると発表した。
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第1回投票
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「2012年エジプト大統領選挙」の記事における「第1回投票」の解説
第1回投票は予定どおり5月23日午前8時より開始された。エジプトにとって史上初の自由投票の大統領選挙となったこともあり、投票所には長蛇の列ができた。選挙後、不正があったとしてアフマド・シャフィーク、ハムディーン・サッバーヒー、アブドルモネイム・アブールフトゥーフ、アムル・ムーサの4候補などから合計7件の不服が申し立てられたが、いずれも選挙結果には影響しないものとして却下された。5月28日に選管より公式結果が発表され、その結果過半数を得た候補はなく、イスラム穏健派のムハンマド・ムルシーが1位、元首相のアフマド・シャフィークが2位となり決選投票に進んだ。投票率は46.2%。シャフィークはムバーラク政権下で首相を務めていたこともあり、選管による選挙結果発表後には首都カイロのタハリール広場にてシャフィークの決選投票進出に抗議するデモも行われたほか、シャフィークの選挙事務所が放火されるなどした。またカイロ以外でもエジプト各地で抗議デモが行われ、決選投票に進んだ両者のポスターが破られるなど混乱が続いた。
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第1回投票
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「1960年自由民主党総裁選挙」の記事における「第1回投票」の解説
候補者得票数池田勇人 246票 石井光次郎 196票 藤山愛一郎 49票 松村謙三 5票 大野伴睦 1票 佐藤栄作 1票 この当時の総裁選挙は立候補制ではなかったため、自民党所属の国会議員に対する票であればすべて有効票として扱われた。 どの候補も1回目の投票で過半数を獲得しなかったので、上位2名による決選投票が行われた。
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第1回投票
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「2012年自由民主党総裁選挙」の記事における「第1回投票」の解説
候補者得票数議員票党員算定票1/安倍晋三 141票 54票 087票 2/石破茂 199票 34票 165票 3/町村信孝 034票 27票 007票 4/石原伸晃 096票 58票 038票 5/林芳正 027票 24票 003票 党員算定票の内訳候補者1/安倍2/石破3/町村4/石原5/林合計871657383都道府県配分票数北海道92 3 4 青森県51 3 1 岩手県41 2 1 宮城県52 2 1 秋田県41 3 山形県5 5 福島県61 4 1 茨城県101 8 1 栃木県51 3 1 群馬県71 5 1 埼玉県82 5 1 千葉県72 4 1 東京都164 8 4 神奈川県104 5 1 新潟県73 4 富山県82 5 1 石川県72 3 1 1 福井県53 2 山梨県4 2 1 1 長野県51 3 1 岐阜県103 5 2 静岡県82 5 1 愛知県93 5 1 三重県51 4 滋賀県51 3 1 京都府52 3 大阪府94 4 1 兵庫県62 4 奈良県42 1 1 和歌山県53 1 1 鳥取県5 5 島根県61 3 2 岡山県63 3 広島県83 3 2 山口県65 1 徳島県4 4 香川県61 3 1 1 愛媛県73 4 高知県4 4 福岡県63 2 1 佐賀県41 2 1 長崎県73 3 1 熊本県72 3 2 大分県52 2 1 宮崎県62 4 鹿児島県61 3 2 沖縄県4 3 1 (無効票:1) 最多得票の石破の得票数が有効投票数の過半数(250票以上)に達しなかったため、総裁公選規程第23条に基づき、石破と安倍の上位2名について、党所属国会議員(198名)による決選投票が行われた。決選投票が行われたのは1972年の総裁選挙(田中角栄対福田赳夫)以来40年ぶり。
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第1回投票
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「1925年ドイツ大統領選挙」の記事における「第1回投票」の解説
第1回投票で当選するには、絶対的多数つまり過半数での得票が必要であったがどの候補も過半数獲得はできなかった。 当落得票数得票率候補者所属政党支援・推薦政党 × × × × × × × 10,416,6587,802,4973,887,7341,871,8151,568,3981,007,450285,793 38.80%29.00%14.50%7.00%5.80%3.70%1.10% カール・ヤレスオットー・ブラウンヴィルヘルム・マルクスエルンスト・テールマンウィリ・ヘルパッハハインリヒ・ヘルトエーリヒ・ルーデンドルフ 人民党社会民主党中央党共産党民主党バイエルン人民党タンネンベルク同盟 国家人民党なしなしなしなしなしなし
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第1回投票
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「2010年ウクライナ大統領選挙」の記事における「第1回投票」の解説
オレンジ革命後の2005年1月、ヴィクトル・ユシチェンコが第3回投票(やり直し決選投票)で第3代ウクライナ大統領に当選した。5年任期終了後、予定通り2010年1月17日に投票が行われた。18名が立候補し、同日夜に投票が締め切られて開票作業がなされた。地域党のヤヌコーヴィチが1位となったが、当選に必要な過半数に届かず、決着は2位のティモシェンコとの間で行われる2月7日の決選投票に持ち越されることになった。なお、現職のユシチェンコは支持を集められず5位に終わった。
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