ムバーラク政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
詳細は「ホスニー・ムバーラク」を参照 サーダート暗殺後、ホスニー・ムバーラク(ムバラク)が副大統領から大統領に昇格した。ムバーラクはサーダートの政策を継承し、対米協調路線を継続するとともに、破綻したアラブ諸国との関係回復を積極的に進めた。1984年にヨルダン、モロッコとの国交を回復を達成したのを始めとして、シリア・イラクとも関係改善し、1989年までにはアラブ連盟に復帰するとともに、イラク、ヨルダン、北イエメンとともにアラブ協力会議(ACC)を結成した。対外債務に圧される国内経済はひっ迫の度合いを強めており、石油価格の低迷の影響を受けて1989年には国家財政は破綻寸前にまで追い詰められた。 1990年、イラク大統領サッダーム・フセインがクウェートに侵攻し、翌年湾岸戦争が勃発した。直前まで自制を求めてイラクに働きかけを行っていたムバーラクはメンツを潰された形となり、ACCも空中分解するなど外交的に大きな打撃を受けた。このためムバーラクはアメリカを中心とする多国籍軍に加わって湾岸戦争に参戦した。戦中・戦後処理においてムバーラクは卓越した外交手腕を発揮し、西側諸国や湾岸諸国から149億ドルに上る債務免除を取り付け、アメリカからの大規模な財政支援・軍事支援も獲得した。湾岸戦争後にはエジプトは中東諸国間やヨーロッパ諸国とアラブ諸国の仲介役として俄かに存在感を強め、アラブ諸国はこぞってエジプトに接近するようになった。 戦争を通じて得た債務免除とアメリカからの支援は危機的状況にあったエジプトの経済問題を解決する切っ掛けとなった。ムバーラクは1991年国際通貨基金(IMF)と構造調整政策を導入することを合意し、財政の引き締め、為替の自由化、価格統制の削減、国有企業の民営化、自由貿易の推進と補助金の削減などを次々と推し進めた。一連の政策は1990年代中目覚ましい成果を上げ、財政赤字問題をほぼ解決し、国民総生産をほぼ倍増させるなど、IMFからは模範事例として賞賛されるほどのエジプト経済の回復をもたらした。 しかし一方で、これらを実現するために国有企業や国有地払い下げの際に政権に近い実業家に好条件で売却するという手法がとられたことによって、一部の実業家に利権が集中し腐敗が深刻化した。ムバーラクの政策を通じて急成長した実業家たちは、財力を背景に国会議員となり始め、企業経営者の国政参入が進行した。このことは全社会を覆う翼賛組織としての国民民主党の性格を変質させることとなった。実業家の進出によって国民民主党は次第に実業家の利益代表としての「ブルジョワ政党化」が進むとともに労働組合などが次第に国民民主党から離れていった。2004年に実業家が複数入閣したアフマド・ナズィーフ(ナジフ)内閣が誕生すると、実業家自身が自らの企業経営に有利な政治を実施する「クローニーキャピタリズム(取り巻き資本主義)」が進展した。ナーセル以来の翼賛的体制は、(多分に実効性に問題がある場合はあったものの)政治的権利の制限と引き換えに国が国民の福祉サービスを提供するという社会主義的な建前に基盤を置いていたが、政治的自由化が全く進展しない中での与党国民民主党のブルジョワ政党化はこうした建前を政府側から破壊するものでもあった。そのため、国民の間で民主化を求めるデモなどが頻発するようになっていった。 湾岸戦争の記憶も遠くなった2000年代にはまた、エジプトとアメリカの関係も次第に悪化した。これは中東和平の行き詰まりなどから、アメリカが中東におけるエジプトへの支援の効果に疑問を持ち始めたこと、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に複数のエジプト出身者が関与していたことから、エジプトに対するアメリカ世論が悪化したことなどが背景にあった。同時多発テロの余波として発生した2003年のアメリカによるイラク侵攻(イラク戦争)の際には、ムバーラクは戦争回避を目指して仲介に奔走したが成果はなく、エジプトの無力を内外に印象付ける結果となった。
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