首相指名と辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 05:20 UTC 版)
「アフマド・シャフィーク」の記事における「首相指名と辞任」の解説
2011年1月25日に革命運動が勃発し、1月28日には反体制派デモ隊24人が死亡。ムバーラクはアフマド・ナズィーフ首相を含む全閣僚を更迭し、29日、野党を含めたエリート層から尊敬を集めるとされるシャフィークを新しい首相に指名した。シャフィークは、首相就任当初、概ね容認された。彼に敬意を持っていたのは、エジプトのエリート層のみならず、(当時の)反体制派も含まれたと、仏語紙では報じられた。民間航空大臣として、エジプト航空を立て直した、清廉な政治家との評価もあった。内相を更迭し、財界、なかでも、ムバーラクの次男ガマール・ムバーラクの側近は入閣しなかった。 しかし組閣にあたっては閣僚を数名入れ替えただけにとどまったため、不満の声があがった。1月31日、僅か組閣の2日後、1回目の内閣改造をした。 2011年2月11日にムバーラク政権は倒れ、SCAF エジプト軍最高評議会がエジプトの統治を暫定的に引き継いだが、シャフィークはSCAFの一員でもあった。 2月22日、2回目の内閣改造を余儀なくされ、ムバーラク政権に協力した守旧派の一人と見做され、首相として表舞台に残ることに反発を受けた。 2011年3月2日、エジプトの衛星ネットワークONTV(英語版)にて放送されているリーム・マーギド(英語版)のトーク番組バラドナー・ベル・マスリ(英語版)において、ヤコービアン・ビルディング(英語版)の著者であるアラー・アル=アスワーニー(英語版)に喧嘩腰のインタビューをされた翌日の3月3日に首相を辞した。アスワーニーは放送中、シャフィークを厳しく批判した。これはエジプトの歴史の中で初めて、政府高官に対する国民の批判がテレビ放送されたケースであった。放送中、アスワーニーは「あなたの息子がパトカーに轢かれたうちの一人であったならば、あなたはそのようにだんまりを決め込むようなことはないだろう」と述べた。さらにアスワーニーは、シャフィークはエジプト人が打倒しようと戦っている体制の残党であり、革命後にエジプトを代表するにはふさわしくない人物だと批判した。 こうした反体制派などからの退陣圧力により2011年3月3日に首相を辞任。在任期間は1ヶ月強という短命政権であった。後任にはイサーム・シャラフが就任した。
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