エジプトの統治とは? わかりやすく解説

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エジプトの統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:29 UTC 版)

アフマド・ブン・トゥールーン」の記事における「エジプトの統治」の解説

アレクサンドリア ファラマ ティンニース アリーシュ フスタート ファイユーム・オアシス アル=ウシュムーニーヤ アシュート アフミーム ルクソール エスナ アスワン 9世紀当時エジプト主な都市位置示した地図 既にカリフムウタスィム治世には高い地位にあったトルコ人たちが封土形態アッバース朝各地方総督任命されるようになっていた。そして地方総督地位を得ることで文民官僚介することなく自分自身軍隊のために地方税収直接確保できるようになった。その一方で任命されトルコ人将官たちは大抵においてサーマッラー権力中枢の近く留まり自身の名において統治する代官送り込んでいた。このような背景から、868年カリフムウタッズがバーヤクバークにエジプト監督任せると、バーヤクバークは継息子のイブン・トゥールーンを自身総督代理駐在官として派遣した。イブン・トゥールーンは868年8月27日エジプト入り9月15日エジプト首府フスタート到着した着任後のイブン・トゥールーンの立場現地において議論余地なく認められているとは言い難い状況だった。フスタート統治者として現地守備隊監督し、「軍隊と金礼拝監督者(wāli al-jaysh waʾl-ṣalāt)の称号認知されているイスラーム教徒社会の長であったが、財政運営、特に地租(kharāj)の徴収実力者経験豊富な行政官であるイブン・アル=ムダッビル(英語版の手握られていた。イブン・アル=ムダッビルは861年頃には既に税務長官 (ʿāmil) に任命されており、イスラーム教徒と非イスラーム教徒双方対す税金倍増させ、新たな税金課したために急速に国内で最も嫌われる人物となっていた。イブン・トゥールーンは即座に地域内の唯一の支配者となる意志示したフスタート到着した際にはイブン・アル=ムダッビルと駅逓業務英語版)(barīd)やアッバース朝政府との通信責任者であったシュカイルが10,000ディナール贈り物用意してイブン・トゥールーンを出迎えたが、イブン・トゥールーンは受け取り拒否したその後4年間にわたりイブン・トゥールーンとその競争相手たちは互い無力な存在とするためにサーマッラー宮廷使者親族通して争ったが、最終的にイブン・トゥールーンは871年7月にイブン・アル=ムダッビルのシリアへの転任実現させ、自ら地租徴収を担うことに成功した同時にシュカイルの罷免実現し、シュカイルはその後間もなく死去した。こうしてイブン・トゥールーンは872年までにエジプト全ての行政部門を掌握しアッバース朝中央政府から事実上独立した存在となった。 イブン・トゥールーンが派遣され当時エジプト変革の時迎えていた。834年それまで支配層であったフスタートにおける初期イスラーム教徒アラブ人入植者一族jund)は特権政府から支払われる俸給失い権力アッバース朝宮廷から派遣され役人たちの手移った。ほぼ同時期に初めイスラーム教徒人口コプト教徒人口上回り始め農村地帯ではますますアラブ化とイスラーム化双方進行したこのような変化速さ加えアスワンにおいて金とエメラルド鉱床発見されたことで入植者流入しその影響によって特に上エジプトでは地方知事による統治形骸化するようになったさらにはサーマッラー政治混乱英語版)」として知られるアッバース朝国家中枢における内紛混乱続き、この状況一連のアリー家(英語版)に連なる称する者たちによる千年王国論的な革命運動エジプト出現させる原因となった。その中の一人アリー・ブン・アビー・ターリブ息子のウマル・ブン・アリー(英語版の子孫であるイブン・アッ=スーフィー869年後半反乱起こしエスナ民衆虐殺した870年の冬にイブン・アッ=スーフィーはイブン・トゥールーンが派遣した軍隊破ったが、翌年春に砂漠オアシス追いやられたその後オアシスに留まっていたものの、872年に同じ地域有力者であるアブー・アブドゥッラー・ブン・アブドゥルハミード・アル=ウマリーとの争い敗れメッカ逃亡した最終的にイブン・アッ=スーフィーメッカでイブン・トゥールーンによって捕らえられ、しばらくの期間投獄された。 873年874年にはイブン・アッ=スーフィー従者一人であったアブー・ルーフ・スクーンがオアシス反乱起こし、イブン・トゥールーンが恩赦与えざるを得ないほどの成功収めた。イブン・アッ=スーフィー追放したアルウマリーアリーの子孫であり、金鉱周辺自治政権築き自分に対して派遣され軍隊打ち破った。さらに874年875年にはバルカ総督のムハンマド・ブン・アル=ファラジュ・アル=ファルガーニー反乱起こした当初イブン・トゥールーンはアルファルガーニーとの和解試みたが、結局は限定的な実力行使ではあったものの)都市包囲攻撃するために軍隊派遣せざるを得なかった。その一方でバルカ対す支配権の再確立西方イフリーキヤとの関係の強化つながったまた、イブン・アル=アスィールなどの歴史家によれば、イブン・トゥールーンはバルカ海岸沿いに一連の灯台水路標識設置した一方パレスチナでは、現地総督のイーサー・ブン・アッ=シャイフ・アッ=シャイバーニー英語版)がアッバース朝本拠地であるイラク政治混乱利用してベドウィンによる半独立政権築きエジプトから税金を運ぶキャラバン道中捕らえたダマスクス脅かしたりするようになっていた。869年7月即位したカリフムフタディー在位869年 - 870年)はアッシャイバーニー手紙送って不当に横領した財貨引き渡すことと引き換え恩赦与えると持ち掛けたアッシャイバーニーがこの提案拒否するカリフはイブン・トゥールーンにアッシャイバーニー討伐命じた。イブン・トゥールーンはこれに応じ軍隊編成するために869年から870年にかけての冬の時期アフリカ系黒人(Sūdān)とギリシア人(Rūm)奴隷大量購入開始した。しかし、870年の夏に軍隊率いてアリーシュ到着するとすぐに引き返すように命じられた。結局アッシャイバーニー反乱は同じトルコ人軍人であるアマージュール・アッ=トゥルキー(英語版)によってまもなく鎮圧され、アマージュールは878年死去するまでアッバース朝の下でシリア統治し続けたそれでもなお、この出来事はイブン・トゥールーンがカリフ認可のもとで自らの軍隊補充可能にしたという点で非常に重要な意味を持っていた。イブン・トゥールーンの軍隊最終的に100,000人の規模にまで成長した伝えられており(別の史料24,000人のトルコ人ギルマーンおよび42,000人のアフリカ系黒人ギリシア人奴隷さらにはギリシア人中心とする傭兵部隊から構成されていたと説明している)、この軍隊はイブン・トゥールーンの権力独立基盤となったまた、イブン・トゥールーンは身辺警護のためにゴール地方からギルマーンの部隊雇った伝えられている。 イブン・トゥールーンの継父であるバーヤクバークは869年870年殺害された。しかし、イブン・トゥールーンにとっては幸運なことにエジプト監督者地位871年の夏に義父のヤールジューフへ引き継がれた。ヤールジューフはイブン・トゥールーンの地位追認しただけでなく、アレクサンドリアバルカ統治権もイブン・トゥールーンに与えた。イブン・トゥールーンは873年アレクサンドリア統治長男アルアッバース委ねたまた、イブン・トゥールーンの権力の増大870年フスタート北東アル=カターイ(英語版)と呼ばれる新し宮殿都市建設したことに現れていた。この都市の建設計画当時アッバース朝の首都であるサーマッラー対抗するべくサーマッラー意識的に模倣したのだったサーマッラー場合同様にこの新しい都市はイブン・トゥールーンの新軍団の居住地として設計されフスタート都市住民との軋轢軽減することも意図していた。それぞれの部隊居住のための場所の割り当てを受けるか地区与えられその後地区に名前がつけられた。新しい都市中心イブン・トゥールーン・モスクであり、メソポタミア出身キリスト教徒建築家であるイブン・カーティブ・アル=ファルガーニーによる指揮の下で878年から880年にかけて建設された。モスク隣接して王宮建ち、その周囲都市整備された。政府庁舎隣接して市場無料診療提供する病院(al-bimāristān)、さらには競馬場などがあった。しかし、イブン・トゥールーン自身フスタート郊外のクサイルにあるコプト教会修道院に住むことを好んでいた。

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エジプトの統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)

ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「エジプトの統治」の解説

936年アッバース朝カリフラーディー在位934年 - 940年)に手紙記したイブン・トゥグジュは、ファーティマ朝侵略打ち破り地域内の財政状況改善するために最初措置講じたとする称賛値する記録報告することができた。カリフはイブン・トゥグジュの地位追認し、栄誉の賜衣(ヒルア)を送った歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)が記しているように、「ある意味ではファーティマ朝脅威実際にイブン・トゥグジュを助けた」。なぜならば、イブン・トゥグジュがアッバース朝支援している限り、「カリフ見返りとしてその支配承認与え用意ができていた」からである。アッバース朝宮廷における名声は、もともとは祖先故郷であるフェルガナの王たちが称していた「イフシード(英語版)」のラカブ尊称)を求めるのに十分なものであった938年出されたこの要求対す正式な承認939年7月まで先延ばしされたものの、カリフラーディー最終的にこの要求認めた承認受けたのち、イブン・トゥグジュはこれ以降この新し称号でのみ呼ぶように求めた(以下ではイブン・トゥグジュをイフシードと表記する)。 イフシードの国内政策どのようなものであったかはほとんど知られていないそれにもかかわらず、その治世における国内問題に関する史料上の沈黙は、迅速に鎮圧され942年小規模なシーア派反乱別にすれば、かつてのベドウィン襲撃物価高騰による都市暴動ないしは軍隊王家陰謀反乱といった状況とは全く対照的であり、イフシードがエジプト国内安定秩序ある統治回復成功したことを示している。イブン・ハッリカーンの人名辞典は、イフシードについて、「毅然とした君主であり、戦争においては優れた先見の明示し自身帝国繁栄のために細心の注意払っていた。そして軍人を名誉をもって扱い、その能力正義によって統治した」と記している。イフシードにとって対抗者となる可能性があったマーザラーイーとムハンマド・ブン・タキーンは説得受け入れて新し政権参与した。マーザラーイーは自身部隊早々に逃亡した中でイフシードの政権奪取対す無謀な抵抗試みその結果として当初はイフシードによって投獄されていた。その後939年になって解放されるとすぐに地位影響力回復し946年にはイフシードの息子後継者となったアヌージュール(英語版)に短期間摂政として仕えたしかしながら地位追われ1年間投獄されその後引退して957年死去するまで私人として暮らしたまた、かつてのトゥールーン朝同様に、イフシードもトルコ人黒人奴隷兵を含む大規模な自身軍団築き上げることに特別な注意を払っていた。

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