エジプトの統治
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「アフマド・ブン・トゥールーン」の記事における「エジプトの統治」の解説
アレクサンドリア ファラマ ティンニース アリーシュ フスタート ファイユーム・オアシス アル=ウシュムーニーヤ アシュート アフミーム ルクソール エスナ アスワン 9世紀当時のエジプトの主な都市の位置を示した地図 既にカリフのムウタスィムの治世には高い地位にあったトルコ人たちが封土の形態でアッバース朝の各地方の総督に任命されるようになっていた。そして地方総督の地位を得ることで文民官僚を介することなく自分や自身の軍隊のために地方の税収を直接確保できるようになった。その一方で任命されたトルコ人の将官たちは大抵においてサーマッラーの権力の中枢の近くに留まり、自身の名において統治する代官を送り込んでいた。このような背景から、868年にカリフのムウタッズがバーヤクバークにエジプトの監督を任せると、バーヤクバークは継息子のイブン・トゥールーンを自身の総督代理兼駐在官として派遣した。イブン・トゥールーンは868年8月27日にエジプトに入り、9月15日にエジプトの首府のフスタートに到着した。 着任後のイブン・トゥールーンの立場は現地において議論の余地なく認められているとは言い難い状況だった。フスタートの統治者として現地の守備隊を監督し、「軍隊と金曜礼拝の監督者」(wāli al-jaysh waʾl-ṣalāt)の称号で認知されているイスラーム教徒社会の長であったが、財政運営、特に地租(kharāj)の徴収は実力者で経験豊富な行政官であるイブン・アル=ムダッビル(英語版)の手に握られていた。イブン・アル=ムダッビルは861年頃には既に税務長官 (ʿāmil) に任命されており、イスラーム教徒と非イスラーム教徒の双方に対する税金を倍増させ、新たな税金も課したために急速に国内で最も嫌われる人物となっていた。イブン・トゥールーンは即座に地域内の唯一の支配者となる意志を示した。フスタートに到着した際にはイブン・アル=ムダッビルと駅逓業務(英語版)(barīd)やアッバース朝政府との通信の責任者であったシュカイルが10,000ディナールの贈り物を用意してイブン・トゥールーンを出迎えたが、イブン・トゥールーンは受け取りを拒否した。その後の4年間にわたりイブン・トゥールーンとその競争相手たちは互いを無力な存在とするためにサーマッラーの宮廷の使者や親族を通して争ったが、最終的にイブン・トゥールーンは871年7月にイブン・アル=ムダッビルのシリアへの転任を実現させ、自ら地租の徴収を担うことに成功した。同時にシュカイルの罷免も実現し、シュカイルはその後間もなく死去した。こうしてイブン・トゥールーンは872年までにエジプトの全ての行政部門を掌握し、アッバース朝の中央政府から事実上独立した存在となった。 イブン・トゥールーンが派遣された当時、エジプトは変革の時を迎えていた。834年にそれまで支配層であったフスタートにおける初期のイスラーム教徒のアラブ人入植者の一族(jund)は特権と政府から支払われる俸給を失い、権力はアッバース朝の宮廷から派遣された役人たちの手に移った。ほぼ同時期に初めてイスラーム教徒の人口がコプト教徒の人口を上回り始め、農村地帯ではますますアラブ化とイスラーム化の双方が進行した。このような変化の速さに加え、アスワンにおいて金とエメラルドの鉱床が発見されたことで入植者が流入し、その影響によって特に上エジプトでは地方知事による統治が形骸化するようになった。さらには「サーマッラーの政治混乱(英語版)」として知られるアッバース朝国家の中枢における内紛や混乱が続き、この状況は一連のアリー家(英語版)に連なると称する者たちによる千年王国論的な革命運動をエジプトで出現させる原因となった。その中の一人でアリー・ブン・アビー・ターリブの息子のウマル・ブン・アリー(英語版)の子孫であるイブン・アッ=スーフィーが869年の後半に反乱を起こし、エスナの民衆を虐殺した。870年の冬にイブン・アッ=スーフィーはイブン・トゥールーンが派遣した軍隊を破ったが、翌年の春には砂漠のオアシスへ追いやられた。その後はオアシスに留まっていたものの、872年に同じ地域の有力者であるアブー・アブドゥッラー・ブン・アブドゥルハミード・アル=ウマリーとの争いに敗れ、メッカへ逃亡した。最終的にイブン・アッ=スーフィーはメッカでイブン・トゥールーンによって捕らえられ、しばらくの期間投獄された。 873年か874年にはイブン・アッ=スーフィーの従者の一人であったアブー・ルーフ・スクーンがオアシスで反乱を起こし、イブン・トゥールーンが恩赦を与えざるを得ないほどの成功を収めた。イブン・アッ=スーフィーを追放したアル=ウマリーもアリーの子孫であり、金鉱の周辺に自治政権を築き、自分に対して派遣された軍隊を打ち破った。さらに874年か875年にはバルカ総督のムハンマド・ブン・アル=ファラジュ・アル=ファルガーニーが反乱を起こした。当初イブン・トゥールーンはアル=ファルガーニーとの和解を試みたが、結局は(限定的な実力行使ではあったものの)都市を包囲攻撃するために軍隊を派遣せざるを得なかった。その一方でバルカに対する支配権の再確立は西方のイフリーキヤとの関係の強化につながった。また、イブン・アル=アスィールなどの歴史家によれば、イブン・トゥールーンはバルカの海岸沿いに一連の灯台や水路標識を設置した。 一方パレスチナでは、現地の総督のイーサー・ブン・アッ=シャイフ・アッ=シャイバーニー(英語版)がアッバース朝の本拠地であるイラクの政治混乱を利用してベドウィンによる半独立の政権を築き、エジプトから税金を運ぶキャラバンを道中で捕らえたりダマスクスを脅かしたりするようになっていた。869年7月に即位したカリフのムフタディー(在位:869年 - 870年)はアッ=シャイバーニーに手紙を送って不当に横領した財貨を引き渡すことと引き換えに恩赦を与えると持ち掛けた。アッ=シャイバーニーがこの提案を拒否するとカリフはイブン・トゥールーンにアッ=シャイバーニーの討伐を命じた。イブン・トゥールーンはこれに応じ、軍隊を編成するために869年から870年にかけての冬の時期にアフリカ系黒人(Sūdān)とギリシア人(Rūm)奴隷の大量購入を開始した。しかし、870年の夏に軍隊を率いてアリーシュに到着するとすぐに引き返すように命じられた。結局、アッ=シャイバーニーの反乱は同じトルコ人の軍人であるアマージュール・アッ=トゥルキー(英語版)によってまもなく鎮圧され、アマージュールは878年に死去するまでアッバース朝の下でシリアを統治し続けた。それでもなお、この出来事はイブン・トゥールーンがカリフの認可のもとで自らの軍隊の補充を可能にしたという点で非常に重要な意味を持っていた。イブン・トゥールーンの軍隊は最終的に100,000人の規模にまで成長したと伝えられており(別の史料は24,000人のトルコ人ギルマーンおよび42,000人のアフリカ系黒人とギリシア人の奴隷、さらにはギリシア人を中心とする傭兵部隊から構成されていたと説明している)、この軍隊はイブン・トゥールーンの権力と独立の基盤となった。また、イブン・トゥールーンは身辺警護のためにゴール地方からギルマーンの部隊を雇ったと伝えられている。 イブン・トゥールーンの継父であるバーヤクバークは869年か870年に殺害された。しかし、イブン・トゥールーンにとっては幸運なことにエジプトの監督者の地位は871年の夏に義父のヤールジューフへ引き継がれた。ヤールジューフはイブン・トゥールーンの地位を追認しただけでなく、アレクサンドリアとバルカの統治権もイブン・トゥールーンに与えた。イブン・トゥールーンは873年にアレクサンドリアの統治を長男のアル=アッバースに委ねた。また、イブン・トゥールーンの権力の増大は870年にフスタートの北東にアル=カターイ(英語版)と呼ばれる新しい宮殿都市を建設したことに現れていた。この都市の建設計画は当時のアッバース朝の首都であるサーマッラーに対抗するべくサーマッラーを意識的に模倣したものだった。サーマッラーの場合と同様にこの新しい都市はイブン・トゥールーンの新軍団の居住地として設計され、フスタートの都市の住民との軋轢を軽減することも意図していた。それぞれの部隊は居住のための場所の割り当てを受けるか地区を与えられ、その後地区に名前がつけられた。新しい都市の中心はイブン・トゥールーン・モスクであり、メソポタミア出身のキリスト教徒の建築家であるイブン・カーティブ・アル=ファルガーニーによる指揮の下で878年から880年にかけて建設された。モスクに隣接して王宮が建ち、その周囲に都市が整備された。政府の庁舎に隣接して市場や無料で診療を提供する病院(al-bimāristān)、さらには競馬場などがあった。しかし、イブン・トゥールーン自身はフスタート郊外のクサイルにあるコプト教会の修道院に住むことを好んでいた。
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エジプトの統治
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「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「エジプトの統治」の解説
936年にアッバース朝のカリフのラーディー(在位:934年 - 940年)に手紙を記したイブン・トゥグジュは、ファーティマ朝の侵略を打ち破り、地域内の財政状況を改善するために最初の措置を講じたとする称賛に値する記録を報告することができた。カリフはイブン・トゥグジュの地位を追認し、栄誉の賜衣(ヒルア)を送った。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)が記しているように、「ある意味ではファーティマ朝の脅威は実際にイブン・トゥグジュを助けた」。なぜならば、イブン・トゥグジュがアッバース朝を支援している限り、「カリフは見返りとしてその支配に承認を与える用意ができていた」からである。アッバース朝の宮廷における名声は、もともとは祖先の故郷であるフェルガナの王たちが称していた「イフシード(英語版)」のラカブ(尊称)を求めるのに十分なものであった。938年に出されたこの要求に対する正式な承認は939年7月まで先延ばしされたものの、カリフのラーディーは最終的にこの要求を認めた。承認を受けたのち、イブン・トゥグジュはこれ以降この新しい称号でのみ呼ぶように求めた(以下ではイブン・トゥグジュをイフシードと表記する)。 イフシードの国内政策がどのようなものであったかはほとんど知られていない。それにもかかわらず、その治世における国内問題に関する史料上の沈黙は、迅速に鎮圧された942年の小規模なシーア派の反乱を別にすれば、かつてのベドウィンの襲撃や物価の高騰による都市の暴動、ないしは軍隊や王家の陰謀や反乱といった状況とは全く対照的であり、イフシードがエジプト国内の安定と秩序ある統治の回復に成功したことを示している。イブン・ハッリカーンの人名辞典は、イフシードについて、「毅然とした君主であり、戦争においては優れた先見の明を示し、自身の帝国の繁栄のために細心の注意を払っていた。そして軍人を名誉をもって扱い、その能力と正義によって統治した」と記している。イフシードにとって対抗者となる可能性があったマーザラーイーとムハンマド・ブン・タキーンは説得を受け入れて新しい政権に参与した。マーザラーイーは自身の部隊が早々に逃亡した中でイフシードの政権奪取に対する無謀な抵抗を試み、その結果として当初はイフシードによって投獄されていた。その後、939年になって解放されるとすぐに地位と影響力を回復し、946年にはイフシードの息子で後継者となったアヌージュール(英語版)に短期間摂政として仕えた。しかしながら、地位を追われて1年間投獄され、その後は引退して957年に死去するまで私人として暮らした。また、かつてのトゥールーン朝と同様に、イフシードもトルコ人と黒人の奴隷兵を含む大規模な自身の軍団を築き上げることに特別な注意を払っていた。
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