エジプトの政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「トゥールーン朝」および「イフシード朝」も参照 この大きな潮流の中、カリフとなったムウタスィム(在位:833年-842年)は、伝統が長く自分への忠誠心が疑わしいアッバース朝の旧来の主力軍団(ホラーサーン軍団)に代わる子飼いの戦力として大量のマムルークを購入したが、首都バグダードの市民やホラーサーン軍団の強い反発を受けたことから、手勢のマムルーク軍団を守るためにサーマッラーへの遷都を行った。この時サーマッラーにムウタスィムとともに移動したフェルガナ出身のマムルーク軍人の子供にアフマド・ブン・トゥールーン(イブン・トゥールーン)がいた。成長した彼は868年に総督の副官としてエジプトに派遣され、程なくして独立政権を打ち立てた。これがトゥールーン朝である。 トゥールーン朝は短命な政権であったが、その成立によってエジプトは再び独立した政治勢力となった。これはローマ帝国にエジプトが併合されて以来のことであった。トゥールーン朝の成立はエジプトに大きな経済的繁栄をもたらすことになる。長期にわたり、徴税のみを主たる興味の対象とする短任期の総督たち(カリフ時代のエジプト総督の平均在職期間は2年強に過ぎない)によって厳しい徴税に晒され、生産物を「中央」に奪われていたエジプトは、イブン・トゥールーンによる自立と、彼のシリア・パレスチナへの勢力拡大によって逆に小帝国の中央となった。国外に搬出されることがなくなった富は内政の充実へとむけられ、新たなナイル川の水位計の設置をはじめとした灌漑の改善、フスタートの新たな街区(アル=カターイ(英語版))の開発等が行われた。この時、アル=カターイに建設されたイブン・トゥールーン・モスクは現存するエジプト最古のモスクである。この財力を背景とした大規模な軍隊がトゥールーン朝の支配を支えた。イブン・トゥールーンの下には7,000人のアラブ人自由民兵士、24,000人のマムルーク騎士、そして45,000人の黒人奴隷兵士がいたと伝えられる。 884年にフマーワライフ(英語版)(在位:884年-895年)がイブン・トゥールーンの跡を継いだ。フマーワライフは豪華な宮殿の建設、娘カトラ・アル=ナダーのアッバース朝カリフへの輿入りの際の法外な持参金など、その放蕩ぶりを伝える多彩な逸話が残されている。イスラーム美術としては非常に珍しい生前の人物の彫像、即ちフマーワライフ自身と妃たちの等身大の木像も造られたという。彼の存命中はなおトゥールーン朝は繁栄を謳歌していたが、その死後には軍への給与支払いが可能なだけの資金は残されていなかった。軍団からの支持を失ったトゥールーン朝は無政府状態へと陥り、905年にアッバース朝によって取り潰された。 ほぼ同じ頃(9世紀末)、イスラーム教シーア派の一分派であるイスマーイール派がイフリーキーヤで宣教活動を行い、現地ベルベル人のクターマ族の支持を獲得することに成功した。イスマーイール派の指導者ウバイドゥッラー(アブドゥッラー)はシリアからチュニジア(イフリーキーヤ)に渡り、910年に自らがマフディー(救世主)かつカリフであると宣言した。彼は第4代正統カリフであるアリーの妻ファーティマ(預言者ムハンマドの娘)の血を引くと称しており、この新たな政権をファーティマ朝と呼ぶ。スンナ派を中核とするアッバース朝カリフに対し、シーア派の指導者がカリフを宣言して対抗姿勢を明らかにしたことはイスラーム世界における新たな出来事であった。当初、カリフ・ウバイドゥッラーはイフリーキーヤに打ち立てた政権をあくまでもアッバース朝に対抗するための当座の拠点であると位置づけており、最終目標としてアッバース朝の打倒を目指した。そのため、ファーティマ朝は成立直後から東進を企て、はやくも913/914年冬にはエジプトに遠征軍を派遣した。この遠征軍は当初アレクサンドリアを占領しフスタートに迫ったが撃退され、919/920年に再度攻撃をかけたもののこれも失敗に終わった。エジプトでの敗北によってファーティマ朝は短期間でのアッバース朝打倒をあきらめ、イフリーキーヤでの基盤づくりに方針を切り替えた。 935年にアッバース朝のエジプト総督として派遣されたテュルク系軍人ムハンマド・ブン・トゥグジェは、翌年に行われた3度目のファーティマ朝の遠征を退けてカリフからイフシードの称号を得た。その後、彼はイブン・トゥールーンと同じようにマムルークと黒人兵士を集めて独立勢力化しアッバース朝の統制を離れた(イフシード朝)。しかし、ファーティマ朝の第4代カリフ・ムイッズ(在位:953年-975年)がシチリア島出身のジャウハルを司令官として再びエジプト遠征を開始すると、イフシード朝は有効な対応を取ることができなかった。969年7月にジャウハルがフスタートに入城し、イフシード朝は短命の歴史を終えた。ファーティマ朝は征服直後からフスタートの北に新たな都の建設を開始した。この都市はアル=カーヒラ・アル=ムイッズィーヤ(ムイッズの勝利)と命名され、カリフ・ムイッズは973年にここに拠点を遷した。以降アラブ人たちはこの都市を単にアル=カーヒラ(カイロ)と呼んでいる。
※この「エジプトの政権」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「エジプトの政権」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。
- エジプトの政権のページへのリンク