オスマン帝国支配下のエジプトにおけるマムルーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:05 UTC 版)
「マムルーク」の記事における「オスマン帝国支配下のエジプトにおけるマムルーク」の解説
15世紀のマムルーク朝が政治の腐敗とアミール同士の絶え間ない内紛、疫病(ペスト)の流行による人口の減少とそれにともなう農業・手工業の衰退と、イタリア商人の進出とポルトガル勢力のインド洋への出現による東西交易の停滞はエジプト社会に深刻な打撃を与え、16世紀初頭には250年続いたマムルーク体制は激しく動揺していた。こうして1517年、マムルーク朝はオスマン帝国によってあっけなく滅ぼされ、エジプト州として帝国に編入されることになる。オスマン帝国もマムルークと同じように君主に絶対の忠誠を誓う子飼いの軍隊であるカプクルを抱えていたが、その主力であるイェニチェリが銃火器で武装した歩兵であり、マムルーク朝の崩壊は旧来からの弓を武器とする騎兵であったマムルークの軍事的な限界を示す事件でもあった。 しかし、マムルーク朝が消滅しても、マムルークが根絶されたわけではなかった。マムルーク朝と運命を共にしたのはスルターンに忠実なマムルークたちだけであり、早々にスルターンに見切りをつけてオスマン帝国に従ったマムルークのアミールたちには県知事や代官として在地社会を支配する役職が与えられた。彼らはオスマン帝国の官吏としての地位と財力を背景に故郷のカフカスから新たなマムルークを呼び込み続け、オスマン帝国の支配のもとで小規模ながら支配階級としてのマムルーク体制の再生産が存続した。16世紀末になるとオスマン帝国中央政府のエジプトに対する支配力が揺るぎ始め、ベイの称号を有するマムルークの有力者たちがイェニチェリ駐屯軍と並ぶエジプト州の支配層として存在感を高めた。17世紀にはマムルークのベイたちはフィカーリーヤとカースィミーヤの2派に分かれ、イェニチェリなどの駐屯軍まで巻き込んで抗争を繰り広げて、オスマン帝国中央政府のエジプトに対する支配力をますます揺るがせた。18世紀に入ると中央派遣の州総督は有名無実となり、イェニチェリやマムルークのベイの中で権力を確立した者がシャイフ・アル=バラド(国の長)の称号を帯びて実権を握るようになる。やがてイェニチェリ出身者が立てたカーズダグリーヤが党派抗争の勝利者となり、シャイフ・アル=バラドを独占するようになった。 1758年にシャイフ・アル=バラドに就任したカーズダグリーヤ所属のグルジア系マムルーク、アリー・ベイは自身の子飼いのマムルークを養成して軍事力を高めてイェニチェリを弾圧、エジプトの全土を自派マムルークの支配下に組み入れ、カーズダグリーヤ系のマムルークによるエジプト支配が完成する。さらにアリー・ベイは1768年に始まる露土戦争でロシアに呼応して公然とオスマン帝国に反抗し、1770年にシリアへと侵攻、ダマスカスを占領した。アリー・ベイは1772年には配下のアブー=アッ=ザハブに倒され、アブー=アッ=ザハブも1775年に病死したため、1786年になってオスマン帝国は大宰相ガーズィー・ハサン・パシャを派遣してエジプトの支配権を回復したが、翌1787年に再び露土戦争が起ったために支配回復の試みは中絶する。1791年にアブー=アッ=ザハブのマムルークであったムラード・ベイとイブラヒム・ベイがエジプトの政権を奪取し、オスマン帝国から半ば自立した二頭政治を開始した。
※この「オスマン帝国支配下のエジプトにおけるマムルーク」の解説は、「マムルーク」の解説の一部です。
「オスマン帝国支配下のエジプトにおけるマムルーク」を含む「マムルーク」の記事については、「マムルーク」の概要を参照ください。
- オスマン帝国支配下のエジプトにおけるマムルークのページへのリンク