オスマン帝国時代の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:32 UTC 版)
「ソフィア (ブルガリア)」の記事における「オスマン帝国時代の終焉」の解説
ソフィアは露土戦争のさなかの1878年1月4日にロシア帝国によって征服され、1879年には新たに誕生した自治公国であるブルガリア公国の首都となった。ソフィアはマリン・ドリノフ(英語版)によって首都候補として提案され、1879年4月3日に認められた。解放されたときの人口は11,649人であった。 町が一般的にソフィア(古代ギリシア語で知恵を意味する)と呼ばれるようになったのは、1376年に聖ソフィア聖堂が立てられた後と考えられている。しかしながら、資料によって19世紀末まで、町はソフィア、スレデツの両方の呼称で呼ばれていた。ブルガリア=オスマン戦争(英語版)によって1382年にソフィアはオスマン帝国に包囲され、長期間にわたる攻城戦の末に町はオスマン帝国に制圧された。1878年にソフィアがオスマン帝国の支配から解放された後、ブルガリア人の革命委員会からは古い呼称であるスレデツを維持したいという強い願望が出されていたが、ロシア人の支配者は呼称をソフィアと決定した。 解放後の数十年の間で、主にブルガリアの他の地域からの大規模な人口流入により、町の人口は一挙に膨れ上がった。公国は1908年にブルガリア王国となった。1925年にブルガリア共産党によって聖ネデリャ教会襲撃事件が引き起こされ、170人が死亡、500人が負傷したといわれている。第二次世界大戦の間、ソフィアは連合国による爆撃(英語版)を受けた。後に町はソビエト連邦に征服された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの支援の下でのソ連による征服に続いて、ドイツと同盟を結んでいたブルガリアの政府は共産主義者に取って代わられた。プラハ、ワルシャワ、ブカレストなどと同様に、ソフィアは社会主義国家であるブルガリア人民共和国の首都となった。ブルガリアはこの戦争で領土を失うことは無かったが、多くの人命が失われ、また、ブルガリア国外のブルガリア人との結びつきは大きく損なわれた。この間、ソフィアの人口は急速に拡大し、工業発展が重視され、多くの新しい工場や製作所が町とその周囲に建造された。これによって郊外に多くの新しい町が生まれ、交通ネットワークが拡大した。
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