オスマン帝国統治時代
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「北マケドニア」の記事における「オスマン帝国統治時代」の解説
オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属に置いていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の正教会信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。 19世紀、セルビア王国やギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年にブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン帝国組織が形成された。この頃、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人としての民族自認も芽生え始めていた。 内部マケドニア革命組織はゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にイリンデン蜂起(英語版)を起こした(この年のグレゴリオ暦の8月2日は、ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。1912年の第一次バルカン戦争の時、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌1913年の第二次バルカン戦争へと発展した。
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オスマン帝国統治時代
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「バタク (ブルガリア)」の記事における「オスマン帝国統治時代」の解説
オスマン帝国による数世紀におよぶ統治の間、多くのハイドゥク(hajduk)たちが、ブルガリア人への弾圧に対するトルコ人への復讐をした。その中には、Strahil Voivoda、Deli Arshenko Payaka、Gola Voda、Todor Banchev、Beyko、Yanko Kavlakov、Mityo Vranchevなどの人々がいた。この間の反乱組織の名前として、Haydushka Skala、Haydushka Polyana、Haydushko Kladenche(春)、Sablen Vrah(サブレ峰)、Karvav Chuchur(流血)などがあった。 民族復興時代、木材生産、交易、旅館運営などが発展した。住民が豊かになることで、教育は向上した。世俗の学校は1835年に開設され、聖ネデリャ聖堂は1813年に建造された。バタクからは、民族復興の中心となったリラ修道院で働いた建築家のヨシフ(Йосиф)、ニキフォル(Никифор)、キリル(Кирил)などの、民族復興の人物を輩出している。
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オスマン帝国統治時代
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バティールは1596年にデフテル(英語版)と呼ばれるオスマン帝国の税務記録に、クッズ(エルサレム)地区にあるナーヒヤー(英語版)(いくつかの村か小さな町で構成される地方行政区分)として登場する。全員がムスリムで24世帯と2人の独身男性が居住し、税として小麦、夏作もしくは果樹、そしてヤギまたは養蜂箱を納めていた。納税額の合計は4,800アクチェ(英語版)(オスマン帝国の銀貨であり通貨単位)で、歳入はすべてワクフとして納められた。1838年にはビティール(Bittir)の名でエルサレムの西に位置するベニ・ハサン地区のムスリムの村として記録されている。 1860年代にはフランスの探検家のヴィクトル・ゲラン(英語版)がこの地を訪れている。1870年頃のオスマン帝国の村落の一覧の記録では、家屋数が62で人口は239人となっているものの、人口の集計は男性のみとなっている。また、「モスクの中庭を流れる美しい泉」があったことが記録されている。1883年にまとめられたパレスチナ探査基金による西パレスチナの調査記録によれば、バティールは深い谷の険しい斜面にある中規模の村であると説明されている。1896年のバティールの人口は約750人と推定された。20世紀には開発によってエルサレムへの鉄道がバティールに沿って建設されたため、市場へのアクセスが容易になり、休養のために立ち寄る乗客からの収入も得られるようになった。
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オスマン帝国統治時代
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「モンタナ (ブルガリア)」の記事における「オスマン帝国統治時代」の解説
クトロヴィツァがオスマン帝国に征服されてからは、町は破壊され、壊滅した。1450年から1688年にかけて、町にはトルコ人が再入植した。この場所は戦略的拠点となり、典型的なオリエント風の町として繁栄した。1つのモスク、要塞、そのほかに多くの建造物が作られた。トルコ人らは、1688年にチプロフツィでおきたチプロフツィ蜂起を鎮圧し、町はトルコ人の地域としての性格を確たるものとした。中世の間放置されてきた古代のローマ浴場もあった。
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オスマン帝国統治時代
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オスマン帝国時代、この地域はヨアニナ州(ヨアニナ・ヴィライェット)に組み込まれ、後にヤニナ・パシャリク(Pashalik of Yanina)の支配下となった。この時代、この地域はチャメリアと呼ばれ、ヤニナ州の地区のひとつとなった。 18世紀、オスマン帝国の力が衰えていく中、この地域はアルバニア人の武装勢力指導者でこの地域の支配者となったテペデレンリ・アリー・パシャによって、半独立のヤニナ・パシャリクの一部となった。アリー・パシャはスーリ(Souli)の住民の連合を屈服させようと攻略に出たが、スーリオーテス(Souliotes)の戦士らによって強い抵抗を受けた。アリー・パシャはスーリオーテス平定を目指して何度も攻勢をかけ、1803年にようやくスーリを支配下に納めた。パシャリクが潰えた後、地域は再びオスマン帝国の統治下となった。ギリシャ人、アルバニア人の双方が、チャメリアを含むエピルス全域を自分たちの国の版図に収めることを目指しはじめた。バルカン戦争の後、1913年のロンドン会議によってエピルスは分断され、チャメリアの大部分がギリシャ領となり、北端のごく一部のみが新しく作られたアルバニアの領土に編入された。
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