民族復興時代とは? わかりやすく解説

民族復興時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:50 UTC 版)

北マケドニアの歴史」の記事における「民族復興時代」の解説

18世紀から19世紀に入ると、バルカン諸民族の間では、独自の民族文化復興関心がもたれるようになったブルガリア人の間では、聖職者らを中心に中世ブルガリア帝国輝かし歴史掘り返され教会文化の脱ギリシャ化進められるブルガリア民族復興運動起こったブルガリア人聖職者らはギリシャ人との激し闘争の末、1850年ブルガリア正教会復活させた。今日マケドニア共和国占め地域大部分は、総主教庁から再びブルガリア正教会管掌の下に置かれた。ブルガリア人聖職者知識人主導した民族復興運動マケドニア地域でも展開され教会ブルガリア語化や、ブルガリア語による世俗教育学校複合文化施設チタリシテの設置などが進められた。 列強諸国の支援受けてセルビア王国ギリシャ王国オスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離動き加速した1878年露土戦争の後ロシア帝国オスマン帝国の間でサン・ステファノ条約結ばれると、新しく成立したブルガリア公国は、マケドニア地方全域領土として獲得するとされた。しかし、一度マケドニア全域ブルガリア公国領土とされたものの、ブルガリア独立支援したロシア帝国影響力拡大恐れた列強諸国によってブルガリア領土3分割され、マケドニア地方オスマン帝国領復したマケドニア最大人口持っていたスラヴ人の間では、マケドニア分離ブルガリアへの併合求め動き強まり内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン組織形成された。この頃マケドニア地域スラヴ人多くブルガリア人自認していたが、一部ではブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人民族自認芽生え始めていた。 マケドニア自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャセルビアブルガリアからは複数組織マケドニア地方浸透していった。これらの外来勢力と、地元スラヴ人、そしてアルバニア人地域一体性求めアルバニア人は、武装して互い攻撃しあい、またオスマン帝国官憲攻撃した。それによって、マケドニア地域不安定な混迷の地となっていった。 1903年8月内部マケドニア革命組織ゴツェ・デルチェフらの指導の下で準備進めていたイリンデン蜂起起こしたこの年グレゴリオ暦8月2日ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起失敗終わったものの、その後もこの地域スラヴ人による反オスマン帝国闘争続いたまた、この頃になると、ムスリム人口が多くオスマン帝国との親和性高かったアルバニア人の間でも、プリズレン連盟中心として帝国からの自立動き強まっていった。1886年コルチャにて初のアルバニア語教育を行う公立学校設置された。次第一般人の間にもアルバニア人としての民族意識浸透していった。アルバニア人たちは、ブルガリアセルビアギリシャなどの新し国々アルバニア人土地分割支配することを危惧しアルバニア人の住む地域統一一体性確保求めていた。1908年アルバニア人知識人らはマケドニアビトラにて、ラテン文字によるアルバニア語正書法制定した

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