民族性と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 19:23 UTC 版)
ショカツ人の起源は完全には分かっていない。 中世初期に「Succi」や「Succus」と呼ばれる集団があり、彼らはパンノニアのイリュリア人とトラキア人を隔てていたとされる[要出典]。マティヤ・ペタル・カタンチッチ(英語版)は、ショカツ人がトラキア人の一部族に起源を有すると考えたが、語源学に基づく現代の学説ではショカツ人はオスマン帝国がヨーロッパ領土を失いつつある時代にボスニアからサヴァ川を超えて移住してきたと考えられている。バラニャのショカツ人は、オスマン帝国がヨーロッパの領土を失いゆく18世紀にボスニアのスレブレニツァから集団移住したクロアチア人であると考えられている。ショカツ人が現在の居住地に移住した正確な年代は不明であるが、スラヴォニアおよびヴォイヴォディナのショカツ人は、これらの地域に住むようになった最古のクロアチア人で、同じ地域に住むその他のクロアチア人はそれよりも新しい居住者と考えられている。ショカツ人が外来の居住者ではなく古くからの土着の住民であるとする民族感情は、ショカツ人の間で根強い。 オスマン帝国時代初期の税務記録(デフテル(英語版))では、1615年にショカツ人に関する記録が現れる。ヒジュラ暦の1024年サファル月9日の記録によると、ショカツ人は「ラテンの信仰」を持っており、「宗教的にセルビア人やギリシャ人、ヴラフ人とは完全に異なる」とされている[要出典]。カトリック教会の記録にも登場し、それによると彼らは1935年にイェロニム・ルチッチ(Jeronim Lučić)をボスニアおよびスラヴォニアの司教とするよう求めたとされる[要出典]。 カルロヴィッツ条約によってオスマン帝国領ではなくなったジャコヴォでの1702年の国勢調査によると、400人から600人程度がカトリック教徒のスラヴ人・スラヴォニア人(ラテン語: Slavi catholicae fidae)と答えている。後にタディヤ・スミチクラス(英語版)はこの国勢調査を調査し、「スラヴォニア人」および「ショカツ人」("Slovinci" / "Šokci")という用語を使用した。アントゥン・カニジュリッチ(英語版)(1699年 - 1766年)によると「ショカツ人」の語は、正教徒がカトリック教徒のスラヴォニア人を指して用いるスラングであるとされた。 オーストリア帝国の国勢調査でも多数のショカツ人が、スラヴォニアおよびヴォイヴォディナに居住していることが記されている。1840年の調査によると、クロアチアおよびスラヴォニアの人口は1,605,730人であり、うち777,880人(48%)はクロアチア人、504,179人(32%)はセルビア人、297,747(19%)はショカツ人とされている。ショカツ人はポジェガ、ヴィロヴィティツァ、スレム / スリイェム、スラヴォニア・クライナ(Slavonian Krajina、軍政国境地帯の一部)に多くみられた。1910年の国勢調査によると、68,725人のブニェヴァツ人およびショカツ人がバチュカに、13,012人のショカツ人がバラニャに住んでいた[要出典]。 ショカツ人はクロアチア、ハンガリーおよびセルビアに多く住んでおり、こんにちでは一般に彼らは自身をクロアチア人の一部とみなしている。1991年以降のセルビアの国勢調査では、ショカツ人はブニェヴァツ人とともに独自の民族として認められている。同じ地域に住むブニェヴァツ人とは異なり、ショカツ人の大部分は自身をクロアチア人とみなしているが、一部は国勢調査においてユーゴスラビア人と回答している。1991年のセルビア(ユーゴスラビア連邦共和国)の国勢調査では、1922人が自身をショカツ人と回答しており、クロアチア人との回答の数はこれを大きく上回った。同じく2002年の国勢調査では自身をショカツ人と回答した者は少数にとどまり、「その他」として一括されている一方、クロアチア人との回答は7万人を超えた。「ショカツ人」を「クロアチア人」と並べて独立した民族として扱うセルビアの国勢調査について、クロアチアではこれを不自然かつ有害とする意見がある。彼らはこれについて、ショカツ人がクロアチア人とは異なる古くからの民族であるとする「神話」を強化し、ショカツ人を政治的神話の渦中に放り込み、19世紀に多くみられたようなセルビア人とクロアチア人の対立を煽るものであるとしている 一般に、ショカツ人の人口およびその比率は減少しており、これは世代交代に伴って財産を分割するのを嫌って子どもを1人しか持たないようにしてきたショカツ人の伝統によると考えられる。こうした慣習は19世紀や20世紀でも残っており、ショカツ人は次第に、より多くの子どもを持つ周辺の他の人々に人口比率で圧倒されていった[要出典]。 バチュカにおいてショカツ人が多く住むのは、ソンタ(英語版)(アパティン市(英語版))、バチュキ・ブレグ(英語版)およびバチュキ・モノシュトル(英語版)(ソンボル市)といった村々である。2002年のセルビアの国勢調査では、これらの村の人々の大部分は自身をクロアチア人と回答した。 ハンガリー領においては、ショカツ人の大部分はバラニャに住み、特にモハーチに多い。 クロアチア領のスラヴォニア東部およびスリイェム地方は、「ショカツ人の地」を意味する「ショカディヤ(Šokadija)」の名で呼ばれる。ショカディヤという呼称は1633年(ナシツェ(英語版)周辺地域)、18世紀初頭(ジャコヴォ周辺地域)の文献や、1757年のアントゥン・カニジュリッチ(英語版)の著書でも見られる。ショカディヤの厳密な範囲は定まっておらず、「ショカツ人の故地」を漠然と指し示すものである。
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