現代の学説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)
今日定説として通用している説は、元来フランク人はまとまりを持った性格を持つ部族ではなく、3世紀半ばにライン川右岸に居住していたイスタエウォーネス神を祖先と見なす複数の部族、カマーウィー族(英語版)、ブルクテリー族、カットゥアリー族(英語版)、サリー族、アムシヴァリー族(英語版)などの部族が結集した政治的同盟として成立したとするものである。 フランク人は、紀元前1世紀の「ガリア戦記」や1世紀の「ゲルマニア」に記録されたような他の古いゲルマン人諸部族と違い、3世紀半ばになってから歴史上に現れる。しかも、ローマ人が用いる他のゲルマニアの民族(部族)名が特定の集団を指したのに対し、「フランク人」は、ライン川とヴェーザー川の間の地域に居住した複数の部族の総称として用いられた。289年にカマーウィー族が、307年にブルクテリー族が、306年から315年にはカットゥアリー族が、357年にサリー族が、そして364年から375年頃にかけてはアムシヴァリー族とトゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている。これはあくまでもローマ人の張ったレッテルであり、実際にこれらの部族が「フランク人」という共族意識を持っていたかは不明である。アメリカの歴史学者パトリック・ジョセフ・ギアリ(英語版)は、ある集団が置かれた政治的状況が中世初期の部族アイデンティティーの形成に重要であったことを指摘しており、フランク族においても同様のことが言えるかもしれない。 3,4世紀の「フランク人」たちが共通の言語、習俗、風俗を持っていたかは不明であるが、一般に古代末期から中世初期にかけてのゲルマン人は髪を部族への帰属を示す指標としたことが知られており、少なくとも5世紀にはフランク人たちも共通する髪型によって帰属を示していた。フランク人の王族は長髪を切らずにたなびかせ王権の象徴とした一方、一般戦士の男性は青年期に達した時、「最初の断髪」によって後頭部を剃りあげた。
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