政治的同盟
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一方1800年に、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、ビンセンズにその政庁を置いた。ハリソンはアメリカ植民地政策の拡張のために、インディアンの土地に対する所有権を確保しようとした。特にハリソンはインディアナが州に昇格するために必要なだけの白人の入植者を引き付けようと期待した。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていた。この条約では、リトルタートルや他の部族の酋長たちが約12,000㎢の土地の、合衆国への売却書面に調印(×印を書くだけである)した。 テカムセはウェイン砦での条約を聞いて激怒し、その後は傑出した雄弁家として頭角を現した。テカムセは何年も前にショーニー族のブルージャケットや、モホーク族のジョセフ・ブラントが行ったのと同じ考え方を再び同胞たちに呼びかけた。 その考え方とは、「アメリカ・インディアンの土地はあらゆる部族共通の持ち物であり、全部族の了解無しに土地を売却してはならない」というインディアン文化の基本理念だった。白人たちはもともと代表権のない酋長に「部族代表」として条約署名(×印を書くだけである)させて、全部族の了承を得たものとし、その後で武力で彼らを彼らの領土から追い出してきた。しかしこれは、インディアン側にとっては合議を経ていないルール破りだった。 インディアンたちの怒りは高まっていたが、テカムセは合衆国との本格的な交渉の前に、合衆国との条約に署名したインディアンたち全てを排除すべきであると呼びかけた。テカムセは広く歩き回り、戦士たちに順応派の酋長の意見に耳を貸さずに、プロフェッツタウンの抵抗戦に加わるように熱弁をふるった。テカムセはウェイン砦の条約が不法だと主張した。テカムセはハリソンに条約の無効を主張し、「白人は条約でインディアンから奪った土地の入植を進めてはならない」と警告した。 1810年8月20日、テカムセはハリソンと、インディアナのヴィンセンズに置かれたハリソンの本営で初めて会見した。テカムセはウェイン砦の条約の内容を非難し、一方のハリソンは条約が有効であることを確認し、双方は歩み寄ることはなかった。1811年夏、テカムセとハリソンは再びヴィンセンズで会見し、数人の開拓者がインディアンに殺害された事件を持ち出しハリソンがテカムセたちを糾弾した。テカムセはハリソン側の法の裁きに委ねることを拒否した。 ショーニー族の兄弟は合衆国との和平を保つ意図があることを約束した。テカムセはその後、南部に旅していわゆる「文明化五部族」の中で同盟者を募った。南部の部族の大半はテカムセの申し出を拒絶したが、後に「レッド・スティックス(赤い棒)」として知られるようになるクリーク族の戦士団だけが、テカムセの武器を取って立ち上がろうという蜂起案に賛同した。「レッド・スティックス」は米英戦争のなかで「クリーク戦争」を戦った。
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