政治的和解の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
カタンガの分離状態が終結した後に派閥は政治的駆け引きを模索し始めた。この交渉と時を同じくしてコンゴ・ブラザヴィルに逃れた反体制派のルムンバ主義者による亡命政治団体、コンゴ解放委員会(CNL)が結成された。起草された都市がルルアブールであったことから『ルルアブール憲法(英語版)』の名で知られる新たな改正憲法によって勢力均衡が引き起こされ、妥協の機運は最高潮に達した。新憲法は大統領権限を強化して大統領と首相の共同協議体制を終了させ、自主性を高めながら州の数をそれまでの6から21までに増やすことで連邦主義者を宥めた。また、新憲法によって国名はコンゴ共和国からコンゴ民主共和国に改称された。この憲法は1964年6月25日から7月10日の間に実施された国民投票によって可決され、8月1日に公布された。カサブブは亡命カタンガ人勢力の指導者であるチョンベを暫定首相に任命した。チョンベは有能な人物と見られ、西側諸国からは反共の砦として支持されていたものの、モロッコ国王ハッサン2世ら他のアフリカ諸国の指導者からはカタンガの分離独立の際に彼が中心的な役割を果たしたことで「帝国主義の傀儡」と非難された。
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