インドネシア共産党との対立とは? わかりやすく解説

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インドネシア共産党との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 05:40 UTC 版)

アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「インドネシア共産党との対立」の解説

その頃スカルノは、陸軍代わりインドネシア共産党 (PKI) を政治的同盟者として頼りしはじめていた。冷戦時代のなかでインドネシア非同盟路線に立つべきとスカルノ考えていたが、PRRI 反乱軍がアメリカ支援得ていたことが暴露されスカルノ反アメリカスタンスを取るようになった。こうしてスカルノPKI同盟者とみなし、PKI の方でも、スカルノ同盟することによってのみ、インドネシア政治影響力拡大し政治的にはずみをつけることができると考えた1962年4月スカルノ新内閣を組閣すると、そこに国務大臣として PKI 議長アイディットと副議長ニョトを加えPKI との蜜月ぶりを伺わせた。 ナスティオンは PKI影響スカルノに及ぶのを警戒しており、一方スカルノはナスティオンの PKI 嫌いをよく知っていた。1962年6月スカルノはナスティオンの権限弱めるため、国軍再編行なった陸軍の各師団長は、参謀長から司令官格上げされることになった 。これによって例え陸軍参謀長陸軍司令官になった陸軍の各師団長は、司令官としてさらなる権限与えられ国軍最高司令官スカルノに対してのみ責任を持つことになった。ナスティオンは新たに設けられ国軍参謀長地位就けられた。これは国軍最高司令官であるスカルノ補佐するだけの地位過ぎず陸軍司令官地位就いたのはヤニだった。これによってスカルノはナスティオンの力を削いだ国軍参謀長としてのナスティオンは、部隊運用にあたって何の権限与えられず、ただ軍政面での責任を負うにすぎなくなった権限のない閑職追いやられたナスティオンは、PKI勢い止めるために別の方法考えはじめた1963年5月打って付けの機会となったのは、暫定高国協議会 (Majelis Permusyawaratan Rakyat Sementara, 略称MPRS) の総会だった。その総会間中に、ナスティオンはスカルノインドネシア国民党 (PNI) とともに陸軍出身議員に、スカルノ終身大統領指名する案を提出させた。ナスティオンの頭の中では、スカルノ終身大統領指名されれば選挙の実施はなくなるだろう、そして選挙が行なわれなければ PKI はいかに党勢盛んになろうとも権力握ることはなくなるだろう、という合理的判断働いていた。その提案採択されスカルノ終身大統領就任した

※この「インドネシア共産党との対立」の解説は、「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の解説の一部です。
「インドネシア共産党との対立」を含む「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事については、「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の概要を参照ください。

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