インドネシア共産党との対立
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「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「インドネシア共産党との対立」の解説
その頃のスカルノは、陸軍に代わりインドネシア共産党 (PKI) を政治的同盟者として頼りにしはじめていた。冷戦時代のなかでインドネシアは非同盟路線に立つべきとスカルノは考えていたが、PRRI 反乱軍がアメリカの支援を得ていたことが暴露され、スカルノは反アメリカのスタンスを取るようになった。こうしてスカルノは PKI を同盟者とみなし、PKI の方でも、スカルノと同盟することによってのみ、インドネシア政治で影響力を拡大し、政治的にはずみをつけることができると考えた。1962年4月、スカルノは新内閣を組閣すると、そこに国務大臣として PKI 議長アイディットと副議長ニョトを加え、PKI との蜜月ぶりを伺わせた。 ナスティオンは PKI の影響がスカルノに及ぶのを警戒しており、一方のスカルノはナスティオンの PKI 嫌いをよく知っていた。1962年6月、スカルノはナスティオンの権限を弱めるため、国軍の再編を行なった。陸軍の各師団長は、参謀長から司令官に格上げされることになった 。これによって例えば陸軍参謀長は陸軍司令官になった。陸軍の各師団長は、司令官として、さらなる権限を与えられ、国軍最高司令官のスカルノに対してのみ責任を持つことになった。ナスティオンは新たに設けられた国軍参謀長の地位に就けられた。これは国軍の最高司令官であるスカルノを補佐するだけの地位に過ぎず、陸軍司令官の地位に就いたのはヤニだった。これによってスカルノはナスティオンの力を削いだ。国軍参謀長としてのナスティオンは、部隊運用にあたっては何の権限も与えられず、ただ軍政面での責任を負うにすぎなくなった。 権限のない閑職に追いやられたナスティオンは、PKI の勢いを止めるために別の方法を考えはじめた。1963年5月、打って付けの機会となったのは、暫定最高国民協議会 (Majelis Permusyawaratan Rakyat Sementara, 略称MPRS) の総会だった。その総会期間中に、ナスティオンはスカルノのインドネシア国民党 (PNI) とともに、陸軍出身の議員に、スカルノを終身大統領に指名する案を提出させた。ナスティオンの頭の中では、スカルノが終身大統領に指名されれば選挙の実施はなくなるだろう、そして選挙が行なわれなければ PKI はいかに党勢が盛んになろうとも権力を握ることはなくなるだろう、という合理的判断が働いていた。その提案は採択され、スカルノは終身大統領に就任した。
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