インドネシア共和国時代
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「モハマッド・ナシール」の記事における「インドネシア共和国時代」の解説
1945年8月17日にインドネシア独立宣言がされると、ナシールはインドネシア中央国民委員会(英語版)委員に就任する。1950年9月5日には首相に就任し、1951年まで務めた。ナシールの政治理念はクルアーンの「撒き散らすもの」に基いており、イスラム教の教えが国家・社会・個人に影響を持つウンマを理想とした。また、人権問題とイスラム教の近代化にも努めた。ナシールは政教分離原則を取ったスカルノとは異なり、宗教と国家はインドネシア人の本質的な部分であると考え、宗教研究家ウィリアム・モントゴメリー・ワット(英語版)の言葉を引用し、「イスラム教は単なる宗教ではなく文化そのものである」と主張した。 首相退任後、ナシールはスカルノが掲げる指導される民主主義(英語版)に反対し、インドネシア革命政府(英語版)に加わり抵抗運動を展開する。そのため、ナシールは1962年に逮捕されてマランに投獄され、スハルトが実権を掌握した後の1966年7月に釈放された。釈放後はイスラム教団体を設立し、イギリスのオックスフォード・イスラム・センター(英語版)、パキスタンの世界イスラム協議会(英語版)と交流を深めた。1980年5月5日にスハルト政権の独裁に抗議する50人の嘆願書(英語版)を提出し、海外渡航を禁止される。以降は国内に留まり、1970年代にはスカルノ、スハルトのイスラム教に対する扱いについて記した著作を出版している。1993年にジャカルタで死去した。
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インドネシア共和国時代
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「アリ・サストロアミジョヨ」の記事における「インドネシア共和国時代」の解説
第二次世界大戦が終結してオランダから独立した後、サストロアミジョヨはスカルノの大統領内閣(インドネシア語版)で情報通信副大臣、アミル・サラフディン(インドネシア語版)内閣と第1次ハッタ内閣(インドネシア語版)で教育文化大臣を務めた。また、ハーグ円卓会議ではインドネシア代表団の副代表を務め交渉に参加した。 その後は駐アメリカ大使、駐カナダ大使、駐メキシコ大使を歴任し、1951年12月19日には33万5,000ドルでワシントンD.C.に駐米インドネシア大使館(英語版)を購入している。1953年と1957年の二度にわたり首相に就任し、第1次内閣ではインドネシア・中国二重国籍協定(インドネシア語版)の締結に尽力した。第2次内閣退陣後の1957年から1960年にかけて国連大使を務め、退任後は1966年までインドネシア国民党党首を務めた。1976年にジャカルタで死去した。
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