国民委員会
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「チェコスロバキア亡命政府」の記事における「国民委員会」の解説
1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻は状況を大きく動かした。ベネシュはポーランドに支持電報を打つとともに、イギリスに対しては亡命政府の承認とチェコスロバキア部隊の設立を要請したが、イギリスは拒否した。一方でオススキーもフランスに対して同様の申し入れを行ったが、こちらは好意的な反応を受けた。10月2日にはオススキー側の提案に近い形で合意が見られたが、イギリス政府はこの合意に対して抗議を申し入れ、対イタリア・ハンガリーを考慮したフランス政府も提案の実現化には慎重であった。ベネシュは訪仏して地位改善を求めようとしたが、ダラディエは面会を拒絶し、オススキーらも戦後におけるスロバキアの地位向上を求めてきた。チェコスロバキア主義を取るベネシュはスロバキアの自治権拡大には同意できず、この段階での両者の溝は埋まらなかった。ベネシュは10月17日にチェコスロバキア国民委員会(cs:Československý národní výbor)の設立を決め、政府ではなく亡命者組織としての承認を求め始めた。オススキーは当初参加を拒んでいたが、フランスがオススキーの参加を承認条件としたため、オススキーも参加することになった。その後の戦局の悪化はチェコスロバキア部隊の参加を必要とし、11月14日にフランスは国民委員会を仮承認した。11月17日に国民委員会は正式発足し、12月20日にイギリスも仮承認に踏み切った。 一方でスロバキア人の元首相ミラン・ホッジャはベネシュと同調せず、11月22日にスロバキア国民会議を設立し、スロバキアの独立を目指していた。しかしこの動きは立場の近いオススキーとも決裂し、亡命政府運動の主流からも外れていた。しかしホッジャの勢力にはベネシュの路線を快く思わないチェコ人や、亡命政権作りが難航することにしびれをきらした者も参加し、1940年1月14日にはチェコ=スロバキア国民会議に発展した。イギリス・フランスは二つの亡命組織の一本化を求め、両者の間で統合に向けて話し合いが行われることになった。 1940年3月、ベネシュはアメリカ国務次官ウェルズの要請で『戦後のチェコスロバキア:その要求と構想』という戦後構想を作成したが、この構想はミュンヘン以前の第一共和国を再建するものであり、自治を求めるスロバキアやズデーテン・ドイツ社会民主党などには厳しいものであった。
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