並立議会の出現とは? わかりやすく解説

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並立議会の出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)

エストニアの独立回復」の記事における「並立議会の出現」の解説

1989年2月9日には欧州議会代表団バルト三国入り三国生存人権のためにそれぞれの人民戦線援助する、との声明発した17日にはエストニア最高会議幹部会が、2月24日正式に独立記念日制定した。そして、直後24日共産党人民戦線中心となって組織した独立記念日式典では、最高会議置かれるトーンペア城のピック・ヘルマン塔(エストニア語版)に、独立喪失から40年上の時を経て始めて赤旗ではなく三色旗掲げられた。またリューテルも同式典で、第一共和国1918年2月24日発した独立宣言を、レーニンによる民族自決原則則ったのであるとの認識示した。 しかし民族派にとってみれば、共産党によってピック・ヘルマン塔に三色旗掲げられたことは、第一共和国ソビエト共和国なし崩し的連続させようとする試みに他ならなかった。加えてこの際民心掴んでいたリューテル、トーメ、ヴァリャスらの共産党改革派とともに式典執り行うことを選んだ人民戦線同月2日正式に政党登録)は、民族派との連携拒否していた。 民族派は同24日戦前からの国家連続性と、当時国民基盤とした独立回復宣明した。そして、ソ連編入以前からの国民とその直系子孫、およびその理念共感する者を対象とした独自の「国民」登録を開始した3月10日には民族独立党民族遺産保存協会キリスト教連合 (et) の民族派3団体が、エストニア人のみによる新たな議会エストニア会議エストニア語版)」招集のために、全国地方自治体に「国民委員会」(et) を設置するよう呼びかけた。 これに応えて全国には多数国民委員会設置されたが、共産党人民戦線はこれに対し非現実的実効性乏しくエストニア人民を分裂させる行為である、と非難した。その一方でロシア人排除した新たな議会創設というこのアイデアラトビアにも波及しラトビア共和国国民会議ラトビア語版)が創設される契機となっている。

※この「並立議会の出現」の解説は、「エストニアの独立回復」の解説の一部です。
「並立議会の出現」を含む「エストニアの独立回復」の記事については、「エストニアの独立回復」の概要を参照ください。

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