独立を目指して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
「エイモン・デ・ヴァレラ」の記事における「独立を目指して」の解説
イースター蜂起の首謀者の処刑への反発と、徴兵制への抵抗というアイルランド人の国民感情にうまく乗ったシン・フェイン党は、1918年の総選挙で圧勝し、47%の得票率で104議席のうち73議席をとった(ただし、多くの議席で対立候補が立たず、無投票で議席が獲得された)。1919年、シン・フェイン党の議員たちは自らを「テアクタイ・ダラ」と名乗り、1919年1月21日にダブリンのマンション・ハウスに集って「ドイル・エアラン」という名で知られる「アイルランド国民議会」を結成した。いわゆる「内閣」 (Aireacht) は「プリオム・エール」(ドイル・エアラン議長)によって率いられ、初代議長にはカハル・ブルハが任命された。デ・ヴァレラは1918年5月に再逮捕されていたため、ドイル・エアランの1月の議会に参加することができなかったが、翌月リンカーン刑務所(英語版)から脱獄し、4月の議会でブルハに代わって議長に選出された。1919年にドイル・エアランによって採択されたドイル憲法では「プリオム・エール」はあくまでドイル・エアランの議長であってアイルランドの国家代表ではないとされていた。 アイルランド共和国の暫定政府を国際的に承認してもらおうと、ショーン・オケリーが第一次大戦の戦後処理を話し合っていたパリ講和会議に派遣された。1919年5月、この努力が失敗に終わるとデ・ヴァレラはアメリカ合衆国政府を動かそうと決意、自ら渡米した。この訪問には3つの目的があった。第1はもちろんアメリカ政府によるアイルランド共和国暫定政府の承認、第2は国家運営に必要な融資の依頼、第3はアメリカ合衆国在住のアイルランド系市民たちによる援助の獲得であった。彼は1919年6月から1920年12月までアメリカに滞在した。融資の獲得とアイルランド系市民による援助の獲得には成功したもの、肝心なアメリカ政府による承認は得られなかった。アメリカ在住のアイルランド系市民の実力者たちが、デ・ヴァレラたちの影響力がアメリカ政府に及ぶことを恐れ、それを阻止していたのである。 そのころ、アイルランドにおける英国当局とドイルの間の紛争はついにアイルランド独立戦争という形になって爆発していた。そのころ「ロング・フェロー」(直訳するとノッポという意味だが、長身のバカという意味もある)と呼ばれたデ・ヴァレラは、敬愛をこめて「ビッグ・フェロー」と呼ばれたマイケル・コリンズにアイルランド国内のことをまかせきりであった。
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